駒場祭史(第40回〜第51回)

学園祭の環境対策

環境対策前史

第40回~第51回の時期というのは、日本のバブルがはじけ、様々なものが「自分らしさを探す」時期であったわけだが、駒場祭もその例外ではなく、不況の影響を受けた広告収入減・来場者減少と合わせ、様々な方向への発展を模索していた。そんな模索の一つが本部企画からはじまる「プロジェクト制」である。
「プロジェクト制」というのは、学園祭全体の運営に関わる委員とは違い、運営の一部に参加するプロジェクトメンバーを募って、様々な試みを行おうというものである。駒場祭は例年少人数で運営されており、他の学園祭にあるように大規模な企画を立てることができず、一般参加者の持ち込む企画を援助する方向でしか学園祭を盛り上げられなかったため、委員会運営への参加の門戸を広くすると言う意味で、第48回ごろから実行され始めていた。

“駒場祭史(第40回〜第51回)” の続きを読む

駒場祭史(第30回〜第39回)

大学紛争が終わり学生の気質が変化していくなか、駒場祭の企画にも変化が訪れることとなる。この時代には現在の駒場祭につながる多くの企画が登場している。
本稿では、現在の駒場祭の目玉企画を意識し、特に、文三劇場、ミスコンテスト(以下、ミスコン)に関して述べていくこととする。加えて、当時に特徴的な企画として、恋人リサーチにも若干ふれる。

“駒場祭史(第30回〜第39回)” の続きを読む

駒場祭史(第11回~第29回)

60年安保の余韻の中で

 昭和35(1960)年に行われた第11回の駒場祭は、サブタイトルが「樺美智子さんにささぐ」とされたことからもわかるように、仮装行列や阿波踊りの盛り上がりでまさしく「青春祭」の様相を呈した前年第10回とはうってかわり、前年から繰り広げられていた60年安保闘争の影響が色濃い、政治的色彩の強調された学園祭となった。第11回の駒場祭委員会の委員長は、のちの東大闘争でも活躍した最首悟氏で、氏の言葉を借りればこの年の駒場祭は「民主勢力の内部に存する問題の解明、特に既存左翼に対する徹底的な批判を行い、あらたな反国民勢力の攻撃に対する我々の決意を表明しようとするもの」であるという。駒場祭は「青春祭」であるべきか、それとも「反体制」運動であるべきか、という議論は翌年の第12回駒場祭の開催に当たっても議論されたが、第12回の統一テーマが「反体制の新しいいぶきを」とされたように、60年代の駒場祭は政治色を強める形で幕開けした。

“駒場祭史(第11回~第29回)” の続きを読む

駒場祭史(第1回~第10回)

寮デコレーションの復活

 紀念祭の目玉であった寮デコレーション(寮デコ)は、先に述べたように第1回(昭和25年)の駒場祭では、学部側が難色を示したため実現しなかった。第2回(昭和26年)の駒場祭にあたっても、学部側は駒場祭は研究成果の発表をその中心とするべきであり、一高のノスタルジーは時代遅れだとまで言い切っており、断念せざるを得なかった。ところが、翌第3回(昭和27年)の駒場祭では学部側が一転して寮デコレーションを認め、むしろ推奨するような発言も見られる。学生側の記録では、いわゆるポツダム政令の廃止もあったことから復活を主張し、遠藤郁夫駒場祭委員長が強引な交渉の末認めさせたことになっているが、教養学部報を読むと、第六委員長を務めた市原豊太教授の理解によるところが大きいことがわかる。市原教授は、これまでの2回の駒場祭は必ずしも一般学生の関心が高くないことに気をもみ、面白いもの、楽しいものも必要だということに理解を示して寮デコの復活に意欲を見せ、「どうせやるなら全寮的にやってはどうか」と提案した。また、教官の審査で優秀作を決めて表彰することとなり、約60室が参加した。昭和27年(1952年)10月28日に取り交わされた「駒場祭に関する申合事項」には、「駒場祭は、教養学部学生の研究、文化活動の成果を発表することを以て主眼とし、一般市民との交歓をはかる」とあり、諒解事項として「寮内デコレーション・仮装行列等を禁止する理由とはしない」と付記されている。その後ピーク時には全室の2/3以上にあたる120室もの参加があるまで盛んとなるが、審査を行った教官のコメントは芳しくないことが多く、「類型的」「ウィットに欠ける」「露骨に政治的」との批判が相次ぎ、飾り付けで諷刺精神を示す時代ではないとまで言われる。優秀作とされた作品をいくつか紹介しよう。

“駒場祭史(第1回~第10回)” の続きを読む

本部企画~未来の縮図~

マジックワード

「本部企画」という言葉がある。普段は何気なく使っているこの言葉だが、その説明を求められる度に僕ははたと困ってしまう。「本部企画には本部実行企画と本部後援企画とがあって・・・」とか「駒場祭の顔となるような企画だ」とかと、一応説明はするものの、頭のどこかでしっくりこない。どの説明も一応当たっているような気がするし、外れているような気もする。今まで何回も本部企画の説明をしてきたが、その度に疑問は強まるばかりだ。

“本部企画~未来の縮図~” の続きを読む

オウム真理教と駒場祭

1.学生の「自主的活動」と外部団体

駒場祭は駒場祭委員会の規約で「駒場生の自主的活動の発表の場」と位置づけられていることもあり、駒場の学生のある意味貧弱な活動を覆い隠してしまうような力を持つ外部の団体(例えば企業、政党、宗教団体など)による直接の行為を規制している。実際には、政治家による講演、宗教系サ-クルによる出し物なども見受けられるが、これらは駒場の学生による団体を主催団体として、あくまで駒場の学生がそれらの団体を呼ぶことも含め主体的に企画したもの、とみなしてなされているのである。他大学の学園祭に行ったり、そのプログラムを手にしたことのある方なら、駒場祭はいかに企業の影が薄いか、ということがお分かりいただけると思う。それはこういった事情によるのである。

“オウム真理教と駒場祭” の続きを読む

「紛争」の中の駒場祭

1.「戦後」における1968年

1968年(昭和43年)、その年号とともに記憶されるべき事件はいくつかある。フランスにおける五月革命、チェコ・スロヴァキアにおけるプラハの春とワルシャワ条約機構軍による介入、サッカ-における釜本選手の活躍が著明なメキシコ・オリンピック、三億円事件など。だが、1968年当時学生であった日本人が思い出さざるを得ないものが「大学紛争」ないしは「学園紛争」と呼ばれた一連の騒動なのではないだろうか。敗戦直後に出生し現在50歳付近で日本社会を担うベビ-ブ-マ-と呼ばれる世代は、まさに時代の当事者であったのであり、傍観者であったのだ。

“「紛争」の中の駒場祭” の続きを読む