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「紛争」の中の駒場祭

1.「戦後」における1968年

 1968年(昭和43年)、その年号とともに記憶されるべき事件はいくつかある。フランスにおける五月革命、チェコ・スロヴァキアにおけるプラハの春とワルシャワ条約機構軍による介入、サッカ−における釜本選手の活躍が著明なメキシコ・オリンピック、三億円事件など。だが、1968年当時学生であった日本人が思い出さざるを得ないものが「大学紛争」ないしは「学園紛争」と呼ばれた一連の騒動なのではないだろうか。敗戦直後に出生し現在50歳付近で日本社会を担うベビ−ブ−マ−と呼ばれる世代は、まさに時代の当事者であったのであり、傍観者であったのだ。

 1968年というと、敗戦の翌年に生まれた世代がちょうど大学3、4年。その前後の世代は、まさに戦後改革を反映した新制教育体制の下で教育を受け、ベビ−ブ−マ−として多数の同世代との激烈な競争を体験し、圧倒的に増加した情報に揉まれて成長した。批判的意味も含め「戦後民主主義の申し子」とさえ呼ばれる世代だった。何もその世代の特性だけのために必然のものとして「紛争」が発生したというのではない。しかし、北大、日大、明大、九大…。挙げればキリのないほどに全国的に蔓延した「大学紛争」は、決して「東大」の事情のみによって「紛争」が生じたのではないことを物語る。

 駒場祭の第50回を記念して駒場祭の歴史を振り返ろうとするこの企画では、残念ながら1968年をあまねく射程とすることなどできない。しかし、このような世情から自由ではいられない駒場祭を振り返るのである。いや、このような世情から自由ではいられなかったからこそ第19回駒場祭を見つめ直したいのである。

2.「東大紛争」とは

 「東大紛争」の端緒は、1968年2月19、20日の上田内科春見医局長かんづめ事件に対する医学部の(そして大学全体の評議会も承認した)12名の学生に対する処分であった。1967年時点から医学部では、青医連東大支部という左翼系の強固な卒業生組織と連動して、新卒の医師をほとんど無給で酷使するインタ−ン制度に反対するストライキ(授業放棄)が断続的に行われていた。その中で発生したかんづめ事件だったが、処分を決定する医学部の教授会及び3月11日の評議会では、ストライキが続き学生が授業再開のための交渉にも応じていなかったという事情から、処分の対象となる学生からの意見聴取が行われないまま処分が決定された。これは当時においても慣例に反するものだった。しかし、この処分の対象となった学生のうち1名は当日九州におり、かんづめ事件の現場にいるはずもない学生だったことから、この処分に対して医学部を中心に学生の強い反発が起こり、例えば1968年3月の卒業式は医学部生を中心とする学生(以下、時が進むにつれて「東大生」に限らない「学生」になるが)による安田講堂封鎖の結果中止された。6月10日には医学部等の学生によって安田講堂が占拠されたこともあり、結局処分自体は6月25日に医学部自身によって撤回された。

 これらの一連の行動は、従来の学生運動を担い当時も(そして現在も)東大の各学部の学生自治会の執行部を占めていた民主青年同盟(民青、日本共産党の青年組織)など旧来の左翼勢力ではなく、「闘争委員会」という呼称に代表される(全共闘など)新左翼勢力(三派系、東大では特に社青同の反帝学評が強かった)によって担われていた。しかし、安田講堂を占拠する学生等を排除するため6月17日に大学当局が警察力を大学構内に導入するに及んで、旧左翼勢力を含めた広範な学生による動きへと展開した(戦前大学を含む学問内容に国家権力が介入し自由を奪われた反省から、1952年の東大ポポロ事件以後は大学構内への警察の立ち入りは大学当局の了承・要請によることになっていた。現在も駒場キャンパスでは警察の立ち入りに際しては職員とともに教養学部学生自治会の自治委員長がこれに立ち会う慣行が存在している)。例えば旧左翼勢力のうち、学生自治会中央委員会(各学部学生自治会の協議機関)や生協理事会、生協労組などからなる東京大学七者連絡協議会(七者協)が6月18日に大学当局に対する抗議を決議した。

 警察力導入の結果、新左翼勢力の活動は一般学生にも浸透してますます活発になった。まず6月19日に文学部学友会(文学部の学生自治会に当たる組織)で無期限ストライキに入り、大学院経済学研究科の院生、新聞研究所の研究生がこれに続いた。

 両勢力とも学生らは大学当局との「団交」を要求し、これを受け大学当局は6月28日に総長による説明のための「会見」を行った。会見は学生側の議長団の構成を巡り新左翼系の文・経済・教養学部の学生自治会と、民青系の法・工・理・農等の学生自治会中央委員会勢力が対立したまま開始されたが、総長は「団交」を拒絶したため、6月29日には民青系の法・工・教育学部でも一日ストライキが行われた。

 このような(特に無期限の)ストライキなど、過激な戦術を積極的に採用したのは新左翼勢力だった。7月5日に各学部の「ストライキ実行委員会(スト実)」を中心に東大闘争全学共闘会議(全共闘、山本義隆議長)が組織され、全学無期限スト、全学封鎖を主張した。夏休みに入ると、問題解決のため8月10日に総長の手紙(八・一〇告示)が全学生に送付されたが、これが再び「一方的な押しつけであり、教授会だけの自治を反省しているものではない」との非難を浴び、夏休み明けには逆に医・工・文・経済・教養学部のほとんどが学生によって封鎖され、教育研究活動はほぼ完全に機能停止するに至った。一方で、翌年(1969年)の入学試験を睨み(そもそもストライキにより全ての1、2年(教養学部)生が留年するため、入学者を受け入れられるかという問題もあった)解決への努力も模索され、11月1日の評議会では発端となった医学部学生の残り11名に対する処分も撤回され、時の大河内総長も辞任を表明したが、事態の解決へはほとんど進展しなかった。

 学生側の要求は全共闘と民青系では異なり時期によっても変遷し一定はしないが、主として(1)医学部、文学部などの不当処分の撤回、(2)警察力導入への反省と再発防止、(3)学生、職員の教授会と対等な交渉権の確認、(4)学部分断工作の中止などであった(全共闘の要求は特にはっきりしないが)。11月5日に総長事務取扱(代行)に就任した加藤一郎法学部教授は、全共闘等からの大衆団交要求に対し「全学集会」の開催を呼びかけたが、行われた提案集会も全共闘の「妨害」によって開催できなかった。一方で11月12日には本郷で、同月14日には駒場で全共闘系学生と民青系学生との衝突が発生し、22日の安田講堂前での全共闘の全国総決起集会(東大と日大を中心に全国から全共闘勢力が結集した)に対しては民青系も外部勢力を多数結集させるなど、構内は学生同士の対立も孕み著しく緊迫していった。

3.「紛争」の中の駒場祭

 「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」。このフレ−ズをどこかで聞いたことはないだろうか。「紛争」のまさに真っ只中、1968年11月22、23日に開催されたのが第19回駒場祭であった。女性の学生が4分の1を超える現在ではいささか問題があるようにも感じられる冒頭の文句は、当時文科三類2年だった橋本治氏が描いた第19回駒場祭ポスタ−に記しされていた言葉である。統一テ−マということではなかったらしいが、50回の駒場祭の歴史においても強く記憶されている言葉の一つであろう。

 第19回駒場祭は7月5日から無期限ストライキに入っていた駒場キャンパスで開催された。もちろん準備もストライキ中。ただ、ストライキとは言っても学生が登校していなかった訳ではないので、準備を困難ながらも進めることができた。

 第19回駒場祭を運営する第19期駒場祭委員会(宮崎委員長)は、新左翼系であるフロント(構造改革派系の社会主義学生戦線)によって構成されていた。そのため民青系勢力と対立し、本来の駒場祭委員会は教養学部学生自治会、教養学部学友会、生協、学生会館委員会から選出されるべきところ(選出によって教養学部学生の代表機関ということになる)、学生自治会からの3名の委員の選出を受けることなく発足していた。学生に対しては10月5日になってようやく「駒場祭ニュ−ス」というビラを発行することで参加の呼びかけを開始し(日程としてはやはりかなり遅れている)、一方でその構成の偏りに関して民青系からの批判を受けていた。

 ストライキが解かれる見込みのないキャンパスでの学園祭に教養学部当局からの協力が受けられるはずもなく、必然的に「自主管理」学園祭ということになった。現在の駒場祭も、「学生自治」「学生の自主的活動の発表の場」という思想から「自主学園祭」を理念として掲げてはいるが、必要な資材、設備の貸与など実際には多くの面で学部の協力の下に駒場祭は挙行されており、学部の有形、無形の協力のない駒場祭など果して運営できるのか怪しい。しかし、第19回の駒場祭はまさに字句通りの「自主学園祭」として行われたのである。それが望ましかったかどうかは別だが。

 どのような駒場祭が実際行われたのかは資料不足のためよく分からない。「紛争」中という事情から大学の東京大学史史料室にも資料が存在しない。しかし、初日の11月22日には本郷で全共闘の全国決起集会が行われおり、そして駒場祭終了直後には駒場でも流血を伴う学生同士の衝突が発生している。そんな中で駒場祭は学生にとって一息の休息たりえたのか。それとも。

4.「紛争」の収束

 駒場では12月に入り、それまで早稲田大学で行われていた社青同解放派と革マル派という新左翼勢力同士の衝突が行われるようになり、多数の負傷者を出した。12月13日には民青系とクラス連合(ほぼノンセクト)が事態打開のために開催した教養学部学生自治会の代議員大会が開催されたが、全共闘系学生が多数突入したことによって学生及び教官が数多く負傷した。

 12月16日には大学当局と七学部(民青系となっていた法・工・理・農・経済・教養・教育の学生自治会)代表団(他に教養学部後期の二学科、大学院五系、看護学校の学生自治会を含む)との公開予備折衝が行われる予定になっていたが、全共闘系学生が会場を事前に占拠したため中止された。この後も学生同士の対立は厳しく行われたが、12月25日に法学部緑会(学生自治会に当たる。法学部は10月12日に10学部の中で最後に無期限ストライキに入っていた)が、26日に経済学部学生自治会が、27日に教養学部教養学科が無期限ストライキを学生大会の決議によって解除し、26日に七学部代表団と大学当局との非公開の折衝がもたれるなど、徐々に収束の兆しを見せ始めてもいた。

 12月29日には1969年の入学試験の中止が発表された。そして、1969年1月10日に大学当局と七学部代表団との公開全学集会の開催が決定したため、1月9日には構内の封鎖を続ける全共闘の排除のため、大学によって警察力の出動要請がなされた。1月10日の秩父宮ラグビ−場での七学部代表団との交渉(学生約7500名が見守っていた)では、元文部大臣の町村信孝氏が学生側議長となり(本人は自分で勝手に名乗ったとしている)途中全共闘の乱入があったものの10項目の確認書が作成、署名された。この確認書は基本的に民青系の要求に従って作られており、学生が大学の自治を構成する一つの主体であることが確認されるなど、画期的な意味を持っていたとされている。ただ、代表団を構成した七学部二学科五系一学校の学生自治会でさえ確認書の全てに合意できた訳ではなく、細目ごとになされた署名は、学生を大学自治への一主体として確認した部分も含め多くが「一部(学部の)署名」ということになっている。

 しかし、これによって全共闘による大学構内の封鎖は解かれたわけではなく、大学当局の要請によって出動した警察力による全共闘の排除、つまり世に言う「安田城攻防戦」が1969年1月18日早朝から19日夕方にかけて行われた。ヘリコプタ−から撮影された安田講堂への放水シ−ンが最も有名であろうか。現場の総指揮を採ったという佐々淳行氏によれば警察官も命懸けであったということだが、確かに火炎瓶が飛び交うなか警察は、警棒とジュラルミンの楯を武器に何層ものバリケ−ドを撤去し、学生を次々に検挙した。そして「紛争」は終結した。

 最後に、安田講堂を占拠した全共闘は「時計台放送」という放送を行っていたが、落城を前に流された最後の放送を紹介する。

 「われわれの闘いは勝利だった。全国の学生・市民・労働者のみなさん、われわれの闘いは、決して終わったのではなく、われわれに代わって闘う同志諸君が、再び解放講堂から時計台放送を行う日まで、この放送を中止します。」

 後日談を少々。1月19日に構内から学生は排除されたが、その後も22日早朝までは入構が禁止された。紛争の終結を受けて大学当局は入試の実施を求めたが、文部省は混乱への懲罰として入試を中止させた。東京大学で入学試験が行われなかったのは、現在までの120年を超える東京大学の歴史においてこの1回のみである。「紛争」による被害は当時の価値で4億5千万円と見積もられたが、特に安田講堂は以後数年間使用できなかった。1月10日に七学部代表団によって署名された確認書は、2月9日の評議会で大学当局も正式に承認し、2月11日の二度目の大学当局と七学部代表団との交渉の席上で、七学部の全部が署名した15項目を「これが双方を拘束する正当性を持った決定」とした上で加藤総長及び七学部二学科等の学生代表が署名した。そして、入学試験が行われず入学者を迎えることができなかった1969年春の本郷での五月祭(東京大学全体の学園祭)は、中止されてしまった。

5.参考文献

  • 東京大学百年史編集委員会「東京大学百年史 通史三」(昭和61年)
  • 毎日新聞社「20世紀の記憶 1968年」(平成10年)
  • 東京大学広報委員会「東京大学広報誌 淡青」(平成11年)

 当然のことではありますが、本稿はいずれも伝聞に依っていますので、記載に誤り等がございましたら、是非ご指摘ください。


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