[ 駒場祭Library:History ] 駒場祭Library Home

第31回駒場祭〜第35回駒場祭
| 1-5 | 6-10 | 11-15 | 16-20 | 21-25 | 26-30 | 31-35 | 36-40 | 41-45 | 46-50 |
第31回駒場祭
1980年(昭和55年)11月22〜24日
さあ、踏みだそう 湧きおこる理性の声を
 体現しよう 未来は我らが切り拓くのだ

 この年の人気企画もコンサート中心で、ジューシーフルーツ、浅野ゆう子らが招かれた。最終日には当時一世を風靡したタケノコ族も登場するお祭り騒ぎとなった。この年から文三劇場が始まり、多くの演劇企画が協力体制を組んで運営されることとなった。

第32回駒場祭
1981年(昭和56年)11月21〜23日
時代の奔流に 世界が眠り込む今 真理を叫べ
警鐘を鳴らせ 世紀末の暗雲を突き破り
飛翔しよう!

 恋人リサーチ企画が現れ始める。石川ひとみコンサートでは大観衆が押し寄せ、2時間の予定のコンサートが30分で中止された。インフォメーションセンター(案内所)が構内各所に設置された。また、バスケットボール部との協力で身障者バスケットボール企画が本部企画として行われた。また、懸案事項であった規約がようやく承認、発効の運びとなった。参加を拒否された原理研と反原理共闘のメンバーが正門付近で論争を始め、人の流れが長時間滞った。

第33回駒場祭
1982年(昭和57年)11月21〜23日
平和・真実・自由 
―きみのために ぼくのために―

 テーマが押しつけがましいとされ、批判が多かった。パソコンを使用した占いの企画が人気を呼んだ。アイドルプロデュース研が開催した「東大生が選ぶアイドル」の会場に反対派の学生が乱入、司会者が引きずりおろされるなどの騒ぎとなり、審査が中止された。本部企画として、シンポジウム「世界資本主義の危機と日本の進路」が開かれたが、全般的に硬派企画は振るわなかったようだ。民青主導で運営されていた委員会だったが、この頃を境に、民青は少数派となり、メンバーのほとんどがノンセクトの一般学生となる。また、屋外ブロック名がユニークなものとなったのもこの時から。

第34回駒場祭
1983年(昭和58年)11月18〜20日
ヒト ヒト コマバサイ ヒト

 淡青祭が人気。初の試みとしてクラス・サークル対抗歌合戦が行われ、大盛況となった。間夜祭が初めて行われ、ディスコ・ダンスが繰り広げられた。また、委員会内の事務処理に初めてパソコンが導入された。

第35回駒場祭
1984年(昭和59年)11月23〜25日
パラレルワールド 橋架けて

 ロリコン風表紙のポスター、プログラムが評判となったが、講演を予定していた糸井重里氏、広松渉氏が病気のため講演会が中止となるなどメインを欠いたやや寂しいものとなった。現在の目玉企画の一つ歌謡研究会が企画を出したのはこの回から。本部企画として駒場祭レクチャーシリーズと称し、「愛」をテーマとして連続講演会が行われたが、その後が続かなかった。グランドフェスティバルが1号館前に復活(その前2年間は学生会館前、その前はテニスコート脇だった)し、大成功をおさめた。東京芸術大学に在学中のバイオリニスト漆原啓子さんのコンサートが開かれた。また、構外にまで繰り出す仮装行列はこの年が最後となった。


このページに関するお問い合わせはこちら。
This page is made by WIL.