月日は流れて三十年

西尾 貫一

安藤仁兵衛という名前が、国会議員選挙に登場したとき、「あ、あの安仁!」と、昭和二十五年秋駒場に突如として展開されたレッドパージ反対闘争(後から大野昭男君の本を読むと、夏休み中から計画されていたようですが)に、本郷から応援に来た彼を思い出し、あの当時の光景がまざまざと眼前に浮かんできます。教養学部創設二年目のときでした。

世の中に、よく”if”という言葉をつかって、ある出来事や人生を論じることがありますが、もし、駒場の創設期にあのレッドパージ事件がなかったら、矢内原忠雄先生が学部長でなかったら、あのストライキ事件はなかったかも知れないし、駒場祭も第一回を二十四年の秋に開催していたかも知れない。そうして、当時あじわったような辛い経験はしないですんだかも知れない、というようにも考えられます。しかし、そうした事実があり、教官も学生も、まさに狂爛怒涛の渦の中にまきこまれてしまったのです。

学園の創設の大事な時期を空しくつぶしてしまったように思われますが、今になってみると、そうしたことがあったからこそ、一高、東高、浦高等から集まられた先生方も一つにまとまって駒場の教官となられ、旧制高校一年を経験した学生も、新制高校出身の学生も、駒場の学生として一つの生活を作り出すようになって、教養学部というものが確立されたと考えられ、また駒場というものが当時の教官、学生諸君にも憶い出の多いところとなっているのではないかと思います。とくに私にとっては、学生課長という立場から、学部長と学生のあいだにはさまって(後年、サンドウィッチハム的存在と五月祭に掲示されましたが)右往左往し、自治会代表であった大野君達につきあげられ、矢内原学部長には叱咤されながらも、闘争を通じて教官にも、学生にも人間的なつながりのようなものを感じ、当時の学生とくに対立した学生、心配してくれた学生、そして努力された先生方がなつかしい人達になっています。

二十四年の学友会理事会が、本郷の五月祭に対応して、駒場祭というものをやろうと発議したとき、矢内原学部長は「入学して一年もたたないのに、大学生として市民に発表すべき何があるのか。五月祭というのは、大学での研究と研鑚の実績を市民に発表する場なのだ、未だ早い」と強く反対され、実施できなかったのですが、良く二十五年には「どうしてもやりたいなら、全学生が金を出し合ってでも自分達の力でやりなさい」との条件をとって漸く許可されました。このため、小倉委員長をはじめ各理事は絶対実現しようとの強い意志をもって各クラスに呼びかけ、プログラムを全学生が何部かずつ購入するという計画と予算のもとに、第一回の駒場祭を実現したのでした。

この学友会の理事会というのはおかしなもので、第六委員会(この名前はよく記憶しておられると思いますが)とは違って、教官理事も学生理事も、何か気持ちが通じ合って自由に話し合える不思議な会でした。朱牟田先生をはじめ教官理事は、あたかも学生のような気持ちで、教授会や学部長に説明、了解を得るように努力されたものです。

GHQ支配時代の第一回駒場祭には、変な印刷物が置かれてあったりしてヒヤヒヤしたものですが、学部長、麻生磯次先生、木村健康第六委員長に無事終了の報告をしたとき、とにかく駒場祭がやれたという嬉しさを感じたことを思い出します。

それから月日は流れて三十年、矢内原、木村先生は既に亡くなられ、麻生先生も逝去されました今日、駒場祭三十周年の記念会が計画され、何か書けと言われてペンをとってみると憶い出はあまりにも多く、まとまりもつかず意足らざる文を草することで責を果たさざるを得なかったこと、どうか御寛恕下さい。

※この文章は、1979年の第30回駒場祭の30周年記念誌発行にあたり、西尾先生から寄稿いただいたものです。

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