第一回駒場祭での仮装行列「百姓一揆」

吉川 勇一
(よしかわ・ゆういち 元「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)事務局長、恵泉女学園大学講師)
1949年入学。文科2類。サークルは民俗学研究会、日本文化研究会に所属。

仮装行列

一枚の写真がある。第一回駒場祭での仮装行列に参加し、第三位で入賞した私たち「民俗学研究会」の写真だ。画面では読めないが、右端の武士が手にしている高札には、こう書いてある。

一、百姓一揆取締りの為には村の一つや二つぶっつぶしても差支えなきこと

天明  年  月
吉田 白足袋守

一、百姓一揆の為、関所の通行不可能の者は、租税納入の当日に限り、関所以外の通行を許可する。

天明  年  月
駒場庄 手代 矢内原 忠之丞

何で、こんな文句が喝采をはくし、三等に入選したのか。今の人には少し解説がいるだろうと思う。

しばらく駒場には行っていない。おそらくすっかり構造は変わってしまっているのだろうが、五十年前の当時は「東大前」駅のプラットホームの階段を下りて改札口を過ぎると、左右に線路を渡る踏み切りがあって、それを渡らないと駅の構外へは出られなかった。左のだらだら坂をあがると道は左折し、正門まで、しばらく線路に平行に道は走る。毎日、その両側には、自治会をはじめ、各政治グループ、さまざまな団体、サークルのメンバーがビラを抱えて登校する学生たちに一斉にそれを手渡す。

いわく全学連、いわく都学連、いわく自治会中央委員会、いわく日本共産党東大細胞、いわく、日本共産党東大再建細胞、いわく音感合唱研究会、いわく東大歴研、いわく民科(民主主義科学者協会)東大支部、いわく社会科学研究会……。教室に入るまでに、ビラは両手にいっぱいになる。

この道は、駅から校舎へ向う最短距離ではない。そこで、必然的に、最短距離上の生垣に人が一人通れるぐらいの隙間が作られた。私たちは、それを「矢内原門」と呼んだ。その経緯はこうだ。

第一回駒場祭の直前の前期試験を、私たちはレッドパージ反対のための意思表示としてボイコットした。このときまでに、レッドパージは、日本の各分野で荒れ狂い、つぎには大学の教授陣にまで及ぶと危惧されていたからだ。

校門の前にはピケットラインが張られ、登校する教授や受験しようとする少数学生の入校を阻止した。警官隊が出動し何度か衝突もあった。大学側はもちろん、試験ボイコットを認めず、首謀者には厳罰を科するとした。しかも、職員を渋谷の駅にまで派遣し、乗降する東大生にビラを配った。毎日、登校時のビラ配りにはすっかり慣れていた私たちだったが、井の頭線の渋谷駅の改札口前で手渡されたビラには驚いた。何と矢内原学部長名のビラだったのだ。大学がビラ撒きをするなどということは初めてのことだった。

そのビラには、要旨こうあった。「一部急進学生の主張する試験ボイコットのため、正規の通用門の通行が不可能の者は、試験実施の当日に限り、通用門以外の通行を許可する。教養学部長 矢内原忠雄」

だが、受験した学生は大学側の推定でも一割程度にすぎず、結局、大学側は九月末の試験を中止し、あらためて再試験をすることにした。最初の試験ボイコットはこうして成功に終った。生垣に作られていた近道の隙間は、以後「矢内原門」とよばれるようになった。
仮装行列の高札の後半の文句は、大学側が渋谷駅頭で撒いた異例のビラの文句をもじったものだった。

前半の「吉田白足袋守」とは、もちろん、よく羽織、袴に白足袋を愛用していた当時の総理大臣、吉田茂氏を指している。吉田首相は、その少し前、全国の大学で高揚していた学生運動を鎮圧するためには、大学の一つや二つは潰してもかまわない、とする強硬な談話を発表していた。高札の文句の前半はそれを皮肉っている。

この仮装行列のために、私たちは、まだ当時、教養学部の周辺に残っていた農家を訪ねまわり、菅笠や蓑、鍬や鋤を借り集めてきた。武士がかぶっている鬘は,どうして工面したかはっきり記憶がないが、時代劇を上演した合同演劇研究会からその時だけ借りてきたように思う。キャンパスの中を練り歩いた仮装行列のパレードには、ずいぶん拍手があびせられた。私の隣りに写っている武士に扮した二木宏二君(元日本リサーチセンター所長)はすでにこの世を去っている。

※この文章は、2000年の第51回駒場祭の50周年記念誌発行にあたり、吉川さんから寄稿いただいたものです。

※吉川さんご本人のウェブサイトでも公開されています。