記念祭とかっぱ踊り

大森 義正

一高の記念祭

駒場祭の起源は、旧制第一高等学校(一高)の記念祭にまで溯るとされている。一高の記念祭は一高の終焉迄60回の回数を重ねて来た。

半世紀以上前のことで関係者の多くは物故され、又記念祭史として記録も遺されていないが、乏しい資料をもとにその概略について記すこととする。

一高の始まりは明治7年(1984)東京外国語学校から分離設立された東京英語学校である。(昨年が125年記念) その後明治23年に木下廣次校長が寄宿寮々生の願いをいれて寮生による自治を認めた。これが一高の特色でもあり伝統ともなった自治寮の始まりとなった。

又同時に全生徒を寄宿寮に入寮させることを文部省に申し入れたがそれは却下された。しかし乍ら、「寮自治」と「全寮制」の精神は此の後脈々と受け継がれて行ったのである。

翌24年3月1日に開寮1周年を祝って茶話会議を開き記念日と定めたのが「第1回記念祭」である。行事としては演説・祝辞等ののち剣舞数番が行われた。以後昭和24年2月4日から6日に亘って行われた第60回記念祭に至る迄、激変する社会情勢に対応し乍ら記念祭は続いた。「寮自治」・「全寮制」の精神に基き、記念祭も執行機関である寮委員会の提案を寮生総代会において審議され実行された。

又寮委員会の決定による退寮処分は即ち退学を意味していたと云う。

駒場祭が開催される経緯については別文によることとし、以下60回に亘る一高記念祭に関する幾つかの事柄を簡単に紹介することとする。

1.開催日

大正12年学制改革により新学期開始が9月1日から4月1日に変わった為、それ迄3月1日開催が2月1日に変更された。その間主な皇族の葬儀に係る諸行事によって、繰上げ・繰下げが行われた年もある。又昭和17年以降戦争の影響を受けて、まちまちの開催を余儀なくされた。又日数も1日から3日とその年により異なっている。複数日の場合は第二回以降が一般公開の日となっている。

2.行事

関係者による式典の他に記念講演会・晩餐会・寮生劇・音楽会等が行われた。昭和5年からは寮歌祭が行われるようになった。また滑走行列も可成り早い時期から行われていたと云う。

寮歌は明治25年に初めて「寄宿寮の歌・雪降らば降れ」が不人気で寮歌第一号とならなかった。明治34年には「全寮寮歌」「春爛漫」、翌35年には「嗚呼玉杯」が相次いで発表され寮生のみならず至る所で愛唱される様になる。

駒場の「玉杯」と云われる「新疆の此の丘の上」は昭和12年の記念祭に発表されたものである。(昭和10年9月14日本郷から駒場に移転)

3.入場者

一高は関係者以外校門への入場を厳しく禁じていた。本郷時代は特に厳しかったが、駒場移転後も寮内は女人禁制で母親さえも入れなかった。年1回の記念祭の公開日だけが学外の人々が寮内を見る機会であった為か、入場者数は数多く大正6年には1万4千人、同9年には2万3千人と云う記録が残っている。又寮生には1人当り20枚前後の入場券が配られたが、女学生達の人気の的であったと云う。

4.寮内飾り付け(寮デコ)

入場者の大きな関心を呼んだものは自習室に作られた「寮デコ」であった。廊下側の窓から見てもらう「デコ」はその部屋の寮生達が無い「カネ・チエ・ヒマ」を絞って考えたもので、後に名を成す秀才達も無邪気な先分に力を入れたり、手抜きをしたりしている。一、二の例を挙げれば漱石の作品の中の「偉大なる暗闇」をもじってカーテンを開ければ黒帯丈の空間であったり、開腹手術後の良好な経過の兆しとしてガス放出がよいとされているのをもじって、某要人の快癒を祈って自動車のラッパを見学者にならさせたりしたことが自伝・文集などに記載されている。又手抜きを考えた末、当時評判であったテーマとして、我等は如何にするめいか?」と前日スルメとイカを吊るした大の飾り付けをして外出し帰寮したら、戦後は米軍占領下と云うこともあり米軍を批判したものは数多く見られたが、米軍をはっきり表現すると面倒な為わざわざ「背高色白大男」等と書いたり現代では考えられない様なこともあった。

5.戦争中の記念祭

戦争中も記念祭は行われていたがその中で幾つかのエピソードを紹介する。

イ.委員総辞職事件

昭和18年の記念祭にあたり三重野康寮委員長(後日銀総裁)は「向陵時報」(校内報)に檄文を発表したが、その中の「国家に全てを捧げるとしても、一国家の立場はつひに世界に対するエゴイズムに他ならない。」と書き、又ドフトエフスキーの言葉を引用したことが特高の検閲に引っかかった。安部校長以下学校側の努力によってその部分を墨塗りにすること等で落着したが寮委員会は他の問題(生徒主事に対する敬礼の是非)もあって総辞職したのであった。

ロ.年2回の開催、文化祭の開催

昭和17年には記念祭は2月1日、6月7日の2回行われた。前年10月、戦争遂行の為として、昭和18年月卒業予定者から修学期間を6ヶ月短縮、17年9月に卒業を繰上げとなった。従って記念祭も17年6月にも行われた。翌18年は2月1日に文化祭、第54回記念祭が5月19日警戒警報の中で開催となった。翌19年も同様の開催となった。

ハ.2箇所での開催

昭和19年4月からは、学生の勤労動員が本格化し、一高も2年生が日立・多賀方面に作業隊として出発した。7月7日に駒場で第55回記念祭が行われ式典のあと巌本眞里のヴァイオリン演奏を含め、日本交響楽団(N響の前身)による大音楽会が戦時下にも拘らず開かれ寮生の成功を呼んだ。翌8日には日立の多賀会館で戦時中の交通の不便を克服して、殆んど同じプログラム(音楽会はヴァイオリン演奏のみ)で記念祭が行われたことは特筆に値することであった。

昭和25年2月1日は一高生は年生のみであり、新制東大生の見守る中一高最後の寮歌祭が一高最後の寮歌祭が一高生活の最後を締め括ることとなる。

以上誠に簡単ではあるが一高の記念祭についてほんの一側面を紹介した。不確かな点や誤りも多々あるかと思うがお気づきの点は是非ご教示をお願いして筆をおくこととする。

河童踊り

駒場祭を賑はす河童踊りのルーツは昭和25年3月に幕を閉じた旧制第一高等学校の水泳部の「河童踊り」であったことは半世紀も過ぎた今となってはご存知の方も多くはないと思う。その起源については一高水泳部のOBの方々による幾つかの記録が残されているのでそれ等をまとめたのがこの一文である。

1.「河童節」(「河童踊りの歌」)

“河童踊りをやめらりようか”で始まるこの歌詞は、大正10年夏に千葉県北條にあった「咏帰寮」に松澤一鶴氏等が紹介したのが始まりとされている。(「咏帰寮」千葉県北條にあった一高の水泳の寮。関東大震災により倒壊後、静岡県宇佐美に移転、東大に移管後東大「下賀茂寮」となる。「松澤一鶴」一高水泳部OB、戦前のロス・ベルリンオリンピック水泳チームのヘッドコーチ・監督として黄金時代を築く。)

同氏は大正10年5月上海での極東水泳競技大会(アジア大会の前身)に出場したが、横浜で行われたその予餞会の折、会場近くの菓子屋の2階で大会に参加した他大学の選手達と一緒に作詞したと云われ、2番迄の歌詞がその時のものである。曲については詳らかではないが、相撲甚句から採ったものとされている。相撲甚句は相撲力士達が巡礼先などで土俵の上で余興として歌ったもので、各地の民謡・俗謡に近い曲が多いが、「河童節」の曲は福島県相馬の相馬甚句に一番近いとされている。3番の歌詞は大正12年には存在したとのことであるが、4番以降は咏帰寮の宇佐美移転後、松澤氏、西本浅男氏(共に一高水泳部)等によって追加された。中でも6番以降は、大正14年8月1日一高水泳部による初島遠泳の初挑戦・初成功の帰途、船上で作詞されたもので、大きな喜びと軒昂たる意識が感じられる。

2.「河童踊り」と振り付け

一高時代の「河童踊り」は3番迄であった。一高の記念祭は明治23年以後毎年行われ、寮の記念式典の他各種催しが呼び物であった。仮装行列もその一つで毎年趣向をこらして寮生達によって実施されていた。

昭和4年の春、水泳部員達が本郷のそば屋の2階で行事の相談をしている中で、「河童節」に踊りを振り付けてはと云うことになった。偶々OBの橋爪幸大氏の実兄が日本舞踊の若柳吉志郎氏であったことから、その紹介で若柳吉三郎氏のもとに有志が急遽かけつけクロールの形等を実演し乍ら振り付けを考えてもらい、1月一杯部員やOB有志で猛練習を行った。衣裳も部員の家族達の協力で整え何とか2月1日に間に合わせたと云う。前夜の積雪を踏んでの「踊り」は大成功で仮装行列の最優秀賞のカップを手中にすることが出来たとのことである。なお踊りの合間の行進の形は現在のものと違って前者の両肩に手をかけるラインダンス風のものであったが、これは昭和3年玉川プールで行われた国際水泳大会に出場したアメリカチーム(初代ターザンとなったワイズミューラ等)のパーフォーマンスに倣ったものであった。

戦後は全ての物資が不足で、衣裳もままならず筋骨もあらわな裸での踊りに已むを得ずなってしまった。終演後薄氷の張るプールに飛び込んだ時の痛さは誰もが覚えていると云う。

「河童踊り」も学制改革による旧制一高の終幕とともに消滅するところであった。

昭和24年新制東大第1回の学園祭が企画された時、矢内原学部長が開催不許可の理由の一つに「裸踊りのようなアナクロ」が挙げられたことは後で知って、関係の諸兄には申し訳ないとも思ったが、衣裳があったら裸とは言えない等と考えたこともある。身勝手な推測をすれば、当時は開校間も無い時期、米占領軍は学生運動に神経質になっている中での学園祭の開催は問題を起こし易いとの配慮から、開催不許可の口実の一部となったのではと思うが今となっては確かめる術もない。

何はともあれ翌25年第1回駒場祭開催が決定し、小生も委員の一員として準備の一部をしている中で何人かの委員から「河童踊り」の参加をすすめられた。しかし教養学部水泳部員約30名のうち経験者は4名に過ぎず、それも1回だけと云うことで迷っていたが、部員諸君の多くが何とかやってみようと云うこととなり、一高水泳部若手OB何人かの助けを借りて寮の屋上で猛練習をして何とかすることが出来た。

その後駒場祭も半世紀を過ぎ「河童踊り」も踊りの形その他も少し宛変化をして来たが熱心な後輩諸君のおかげで続いていることは学制改革の過渡期にいた者の一人として大変有り難いことと思っている。

※この文章は、2000年の第51回駒場祭の50周年記念誌発行にあたり、大森さんから寄稿いただいたものです。