裏方から見た周辺雑記

中野 純(第一回駒場祭副委員長=広報・渉外担当)

プログラムが資金調達の”武器”

最近、同窓生の一人が保存していた第1回駒場祭のプログラムが見つかった。旧字体の漢字が方々に使われており、各企画の内容とともに、その時代を反映した貴重な資料だ。敗戦後、日本経済の復興もままならず、いろいろな物資が欠乏していた中、れっきとした活版刷りであった。今更ながら、よくやったものだと感慨ひとしおだ。

このプログラムの売れ行きは駒場祭を成功させるかどうかのカギをにぎった。矢内原忠雄学部長が「自主的活動だから援助しない。全学生が金を出し合ってやるべきだ」と主張され、大学からの支援が得られなかったからだ。やむなく全学生にプログラムを何部ずつか購入してもらうことを前提にした資金計画をつくり、われわれは売りさばきに懸命だった。敷布の切れ端でつくった腕章をつけ、小倉寛太郎委員長が観客の出足を一人一人数えたという涙ぐましいエピソードも残されている。

手作りだったポスター

ポスターは賞金付きで一般学生から募集したが、応募は1件もなく、大論議の末、美術研究会出身で広報担当でもあった私が描くことになった。もちろん現在のように図案作成に便利な機械もなく、もっぱら手書きによるしかなかった。時間との戦いでもあった。そこで、東大の銀杏のマークに、自己流の書体による「駒場祭」の3文字をあしらい、開催日を入れただけのシンプルな構図を考えた。ポスターカラーも、銀杏のもえぎの緑と実りの橙の2色にしぼったように覚えている。残念ながら、現物は残っていない。

もめた広告掲載の是非

ポスターやプログラムに広告を入れるかどうかをめぐり、大学当局は「大学の品位が落ちる」との理由で掲載に難色を示し、学生側は「乏しい資金の足しにするため、背に腹はかえられぬ」と譲らなかった。大学側の姿勢には、謹厳実直なクリスチャンだった矢内原学部長の強い意向が働いていたようにうかがえた。激しい論議を繰り返した揚げ句、大学側も「品位を落とさぬ範囲」を条件に黙認するということに落ち着いた。

結果として、ポスターには東大学力増進会の広告が、プログラムには東大学生文化指導会、東大生協駒場支部、それに京王帝都電車(現在の京王電鉄)の広告が載った。京王帝都電車については、新宿にあった本社にいきなり乗り込んで交渉したが、あっさり応じてくれたのはありがたかった。

開会式のことなど

第1回駒場祭幕を開けた11月25日朝、私は渉外担当の副委員長として、本郷からみえた南原繁総長と矢内原学部長が会場を視察されるのを案内した。

当時の日本はGHQ(連合軍総司令部)支配の形をとっていたが、実質的に米軍の占領下にあり、CIE(占領軍民間情報教育局)が反米的な言動に厳しい目を光らせていた。駒場祭も対象外ではなく、大学当局にとってこれが一番の心配だったようだ。西尾貫一学生課長(のちに名誉教授)らが問題にされそうな展示がないか前日に点検を済ませておられた。そのせいか、会場視察はなにごともなく至極なごやかに終わった。

開会式は「九大教室」と呼ばれていた行動で午前10時から行われた。南原総長の記念講演と小倉委員長のあいさつがあったが、その内容についての記憶はない。
南原総長といえば、当時、近づく平和条約締結問題をめぐって「永世中立・全面講和」を強く訴えておられた。これに対して、吉田茂首相が与党の秘密議員総会で「曲学阿世の徒の空論」と激しく避難し、南原総長も「学問への権力的強圧」と反論されるなど波紋が広がっていた。”時の人”の講演であれば報道陣も注目していたはずだが、その後、どの新聞にも記事は載っていない。この席では政治的な発言を一切控えられたものと推測される。

※この文章は、2000年の第51回駒場祭の50周年記念誌発行にあたり、中野さんから寄稿いただいたものです。