教養学部開学から第一回駒場祭まで

小倉 寛太郎(第一回駒場祭委員長・昭24文Ⅰ-4)

占領下、明治以来の学制改革 1945年8月、4年近く続いて日本人320万人、中国を含めアジアの人々2000万人の命を奪った太平洋戦争は日本の無条件降伏でようやく終戦となった。翌月9月には連合国軍の日本進駐と占領が本格的に始まった。連合国軍といっても実質はアメリカ軍であり、アメリカ陸軍元帥ダグラス・マッカーサーが総司令官だった。マッカーサー司令部(略してGHQ)は「軍国主義、神道主義の日本の復活を許さぬ」との政策のもの、陸海軍の解体、開戦・戦争遂行の責任者たちの戦争犯罪人指名、それに次ぐものたちの公職追放、財閥の解体、不在地主制の廃止など、日本の政治、経済、社会に対して、大幅な改革を実施した。明治維新に匹敵するくらいの大変革だった。教育制度もその例外ではなかった。むしろ、GHQは戦前戦中の狂信的な神道主義・軍国主義の根源は教育制度にあったと考え、徹底的な変革を目指した。

それまでの中等教育は男は旧制中学校、女は女学校で5年過程で、それに並ぶ工業学校、商業学校などをひっきるめて中等学校といった。高等教育は大きく分けて2つのコースがあった。その1は、大学コースで、全国に38しかなかった旧制高等学校(3年過程)から9つの帝国大学(3年過程)または官立単科大学(予科を持っているものもあったが)へ、もしくは私立大学予科からその私立大学へというコースである。全国で国公私立あわせても大学は80足らずだった。第2のコースは専門学校コースで、旧制中学校5年卒で工業専門学校、農業専門学校などへ進むコースがあり、3年過程だったが、医学専門学校は4年だった。教員養成の師範学校コースもほぼこれに似ていた。

GHQが標榜したのは教育の民主化・普及化、民主的教育の徹底、エリート教育の排除である。そのために、小学校6年の後の中学は5年を3年に短縮して、義務教育とした。高等学校3年は変わらなかったが、入学年齢の若年化とその数が数十倍になったことで、その性格は一変した。大学は4年と延長したが、結果として小学校卒業から大学卒業までの通算年数は1年短くなった。原則として各県には必ず国立大学を設置することとし、旧高校、旧専門学校、旧師範学校などを統合して新設した。私立大学も同様に数多く設立が認可され、大学の数は80たらずから一挙に300近くなった。駅弁を売っているような駅には必ず大学がある、と揶揄した評論家が駅弁大学という言葉を流行らせた時代である。GHQが目の敵にしたエリート教育の最たるものだった旧制高等学校から帝国大学へのコースはここに消滅することになった。

その中の私たち 1930年前後に生まれた私たちの世代はなんの因果か、この明治以来の教育制度大変革に巻き込まれてしまった。戦争中は中学生だったが、配色が濃くなるにつれ、授業はなくなり、農村動員、工場動員の明け暮れだった。その動員中でも、少年飛行兵、予科練、陸軍幼年学校、予科海軍兵学校などへ合格した級友たちは学校を去っていた。戦争が終わって、工場から、軍学校から学窓に戻り、授業が始まったが、なにしろ東京、大阪は言うに及ばず、原爆が落とされた広島、長崎のほか、全ての県庁所在地を含む多くの都市は焼け跡になっていて、社会の混乱、食糧不足、インフレ進行の最中だった。教科書もロクになかった。あった教科書も、GHQの指令で、軍国主義的、皇国主義的叙述部分を墨で塗りつぶさなければならなかった。その中でも進学の問題が迫ってくる。学校制度変革は新聞でも取り上げられたが、紙不足で、たった4ページだったので、情報は少なく、今後どうなるか、よく分からなかった。もちろん、テレビはなかった。その中でも、一応、戦前のシステムが続く前提で授業も受験勉強も行われていた。戦争中の空白と食糧不足による空腹を乗り越えながらである。1947年、優秀な級友は中学4年で旧制高校に進学していった(当時あった飛び級制度)。新聞その他の情報では、旧制高校は廃止になり、大学も新制になるそうだ、とは言われながらも、翌1948年も旧制高校の入学試験は行われた。この頃には、合格しても旧制高校はわれわれの一年上級生だけを残して廃止になるので、われわれは旧制高校1年修了資格で新制高校卒業生と並んで新制大学を受験しなければならないということがはっきりしてきた。1年間とはいえ、旧制高校に入学する最後のチャンスだ、と受験勉強に拍車をかけるもの、落ちたって、どうせ、翌年同じスタートラインにまた並んで新制大学を受けるのだから、と手を抜くもの、人それぞれだった。1948年2月、敗戦後2年半、旧制高校の最後の入学試験が行われた。しかし、合格したものも旧制高校の寮生活の楽しさを満喫はできなかった。食糧不足下、米などはとっくになくなっていて、配給されるものはアメリカからの脱脂トウモロコシの粉末、または水っぽいサツマイモ2切れ、あるいはカロリー計算上は辻褄があうのかも知れないが、1週間砂糖だけ、という始末。外食するには配給を辞退した場合にもらえる外食券が必要、という「わが青春に食いなし」だった。この空き腹を抱えて、翌年の受験勉強である。その頃、大部分の私立大学は国立大学に先駆けて既に新制に切り替わっていて、中学の級友で私立大学に進学したものは翌年の入試の心配はなく、その点は大いに羨ましかった。

明けて、1949年(昭和24年)。この年は国公立の新制大学の発足が予定されていた。東京大学は第一、東京、浦和の3旧制高校を合併し、旧一高の駒場キャンパスに教養学部を置くことが分かってきた。しかし、遅くとも2月末か、3月初めに行われるはずの入学試験の日程も決まらず、受験生一同がやきもきするうち、ようやく入試は6月と発表された。もっともその前に現在のセンター試験に相当する進学適性検査というのがあったが、何月だったか、覚えていない。
東大教養学部発足 かくして1949年7月7日、新設の東京大学教養学部は1,804人の学生を受け入れて発足した。学生の構成は多岐にわたった。旧制高校1年修了者が半数以上と思われたが、その他は新制高校初の卒業生など。いずれにも、陸軍幼年学校、予科兵学校からの復員者、さらには遙か年齢が上の陸軍士官学校、海軍兵学校の卒業者さえいた。これは軍関係からの復員学生は入学者の10%以内に制限すべし、とのGHQの命令で、入学競争がより激しくなった旧制大学コースを避けた人も多かったからである。また、敗戦による外地(朝鮮、台湾、当時の満州=現中国の東北地方)からの引揚者もいた。

入学式後、本郷で特別講義が3日あったが、内容は覚えていない。駒場の正門には「党員は連絡せよ――日本共産党東大C細胞」という掲示や文化部、運動部を作ろうというアピールが並んだ。

ゼロからの出発

何分、新設学部で、われわれが第1期生。学部当局側の体裁と体制は曲がりなりも整いつつあったが、当然のことながら、学生側にはなんの組織もない。自治会も、学友会も、生協も、運動部も、文化部も、同好会も、とにかく完全にゼロである。

高校時代サッカー部員だった私は駒場寮の旧一高サッカー部部室でもある中寮20番を訪れてみた。旧一高出身者はもちろん他高校出身者も既に入寮していたが、本郷のサッカー部からの働きは皆無とのこと、要するに相手にされていない、らしい。ボールは旧一高の使い古しがあったので、有志を募ってボール蹴りを始めた。

一方、他の運動部はどうなのだろう、と旧一高の各部室を訪ねてみた。本郷からの働きかけがあったのはスキー山岳部とアイスホッケー部ぐらいで、野球、テニス、バレー、バスケットその他は一切お声がかかっていなかった。当時、新制東大は、年次が上の旧制東大の学生からは「新東(しんとう)」と呼ばれていて、これには軽蔑の意味が入っていたと感じたのは決してわれわれの僻みのせいではなかった。歴訪してみると文化部関係も同様で、本郷側の誠意はともかく、少なくとも現象面では駒場における運動部、文化部の創設と活動開始問題は本郷の関係団体の関心の外にあり、無視されている、としか思えなかった。

運動部代表者会議とお金のこと

いずれ旧制は消滅し、われわれも本郷へ行くのだから、いつまでも無視は続かない、とは思ったが、問題は当面どうするか、である。組織もなければ、金もない。各運動部と語り合い、取りあえず、夏休み前に運動部代表者会議を開いてみた。今後どうするか、の相談の中で誰かが思い出した。入学手続きの時、入学金や授業料と一緒に「学友会費」というのを払ったじゃないか。あれは大学当局が保管しているはず。それを使わせてもらえば、当面、金の問題は解決する。確かに記憶では入学金300円、年間授業料3,600円のほかに200円の学友会費を払い込んだ。あの混然とした時代によくも大学当局は手回しよく徴収していてくれたものだ、と感謝したのはもう少し大人になってからのこと。とにかく200円 x 1,800 = 360,000円は当時としては大金である。

そこで西尾貫一学生課長(助教授)をお訪ねした。初めてお会いした西尾先生は穏和で親切な方だった。後に教養学部の2年間に限らず、その後お亡くなりになるまで50年近くご指導、ご厚誼をいただくことになるとはその時は予想もしなかったが。それはさておき、学部当局が公認する学友会ができれば、預かっている学友会費は引き渡すとのお話だった。学部当局が想定している学友会は自治会とは別で、教官も会員になること、運動部のみならず、文化部なども包含するものと教えて下さった。そこで、よし、その学友会なるものを作ろうじゃないか、ということになり、夏休み中に会則案を作ることにした。入学からわずか約10日の間だった。

文化部を加えた代表者会議

夏休み明け、今度は文化部関係にも呼びかけ、運動部に加え、文化部の代表者にも集まってもらった。それは旧一高以来の弁論部、哲学研、社会研、陵禅会、国文研、邦楽研、聖書研などなど12~13団体だった。経過報告の後、学友会結成準備を提案し、その母体として文化部・運動部代表者会議を正式に発足させることとした。学部当局が預かってくれている学友会費のことも、当然、話しに出た。このお金の存在を全く知らなかった文化部代表者が少なからずいたことは、その表情から明らかだった。この話は急速に広まったらしい。というのは次回会議には運動部15~16に対して、出席の文化部ないしサークルは一挙に40近くになったから。お互いの存在を知らなかったため、似たようなものも多かったので、その後、大同団結してもらったものもいくつかあった(しかし、その後も増え、翌年の第一回駒場祭の時には文化系が66団体、体育系が26団体になっていた)。夏休み中に準備した会則草案はさらに煮詰められ、学部当局との何回かの折衝を経てだんだん固まってきた。

学友会結成のこと

自治会結成の学生投票がたしか10月。これは、賛成が過半数に達せず、流れた。学友会は、それに遅れた11月学生投票で会則が承認され、同月、学部側も会則を承認。ここに学友会が発足した。執行機関である理事会の構成は、教官3人、学生側は文化部関係、運動部関係各3人、(自治会がなかったため)クラス代表2人。議決は、教官理事の同意を必要とした。教官理事は木村健康教授(第六委員長)、朱牟田夏雄助教授(第六委員)、西尾貫一助教授(学生課長)文化部からは竹内淳実君、中根宏君、吉岡隆男君、運動部からは小暮文雄君、杉山道彦君、小倉寛太郎の文化部・運動部代表者会議以来の世話役の諸君、クラス代表として大野明男君、野矢テツオ君だった。教官側と若干もめたあと、議長は学生側から出すことになり、私が第一期議長となった。

学友会の初仕事のこと

初仕事は、当然の事ながら予算の作成、実行。各部の予算請求は予算の数倍に達したと記憶する。しかし、みんなでワァワァやりながら、何とか納まった。学友会本部独自の事業としては、学内のコミュニケーションを図るため、新聞を出そうということもあった。私が発行責任者になったが、実際は大貫信君が担当してくれた(この「東大教養学部新聞」はその後、連綿昭和46年まで続いたが、学園紛争時に廃刊になった由)雑誌を出すことを強力に主張したのが中根宏君。みんなその熱心さに負けて、とうとう予算をつけたが、これは一号でおしまいになってしまったと記憶する。学友会の成立は他の効果ももたらした。教養学部の全学生を網羅する当時唯一の組織として、学生代表を本郷に派遣できるようになったことである。例えば東大運動会会員、五月祭常任委員などに小倉を代表として送り、教養学部学友会の展示、駒場からの参加者動員などを行った。本郷の学生の間でもようやく教養学部が、他学部並に扱われるようになり始めた。

ゼロ回記念祭

教養学部のキャンパスの前身、一高では毎年2月に記念祭をおこなっていた。新しく誕生した学友会は、学園祭をどうするかということに取り組んだ。五月祭に参加すればいい。イヤ、独自のものを持とう。いろいろ論議した結果、学生側は、2月に記念祭をという大勢になって来た。しかし、教官側は煮え切らない。考えられるのは、一高時代の寮デコレーション(寮デコ)が占領政策違反に問われた前例であり、「旧制高校的なセンスを捨てて、新しい大学の理念を求めよ」との矢内原プリンシプルである。しかし、結局、教養学部独自の記念祭を二月に行うこと自体については、学校側もほぼ了承した。全学生へのアピール、寮委員会やクラス代表者会議との協議、傘下各部との打ち合わせ、調整などが始まった。しかし、最大の難関が残っていた。記念祭は学術的研究の成果の発表の場であるべきだから、寮デコその他”非学術的なもの”は認められないとする学校側と、学生が何を感じ、何を考えているのかをも、広く世の人に知ってもらうべきで、表現の自由は損なわれてはならないとする学生側の対立である。連日の折衝で年を越し、西尾先生の頬がこけ、白髪が目立ち始めた。この間、二回ばかり学部長との直接交渉もあったが、「大学は学術研究の場です。その研究の成果発表以外は認めません」の一点張り。戦中戦後を通じて一貫した信念に生きた人格者…というのは、もと大人になってから理解したことで、当時はなんて頑固でけん介なお人だと感じた。結局この最後の一点は双方が譲らず、1月中旬、時間切れで、われわれは最初の学園祭計画を断念、流産となってしまった。

第一回駒場祭のこと

記念祭流産のあと、自治会の成立、二千人の新入生の入学、生協駒場支部の設立、反レッドパージ闘争、友人たちの退学処分などいろいろなことがあったが、他の諸兄が記すだろうからここでは触れない。

学友会も第二期を迎え、理事の改選がおこなわれ、教官理事は全員再任、学生側の内、竹内、野谷、小倉が再任、新しく五十嵐一太郎君、児島秀行君、水越哲朗君、諸井虔君らが加わった。若さというものは厄介なもので、またぞろ話が出て来たのが記念祭である。傘下各部もやろうじゃないかと行って来る。流産のあと、自治会も出来、学生数は二倍以上となり、質量ともにわが陣営は遙かに強力になっていた。今度こそ実現できるぞ。じゃ、来年2月を期すか。イヤ、考えてみると5月には五月祭、2月と5月と続きすぎる。ちょうど半年おいた11月はどうだ、ということになった。一方、学校側もいまや記念祭開催自体にはもう異存がなかったので、学友会案としてそれを決定。自治会委員長大野明男君、寮委員長前田知克君、生協駒場支部(総務委員小倉)に協議を申し入れた。その結果、みんな賛成、各団体から委員を出して駒場祭実行委員会を作った。

委員長には小倉、副委員長には中野純君、水越君がなり、委員には大森義正君、甲次夫君、小嶋正君、斉藤(現在杉原)文治君、竹内淳実君、谷川久君、豊田成君、諸井虔君たちがいた。やることは山ほどあった。まず名称である。いままで記念祭と呼んでいたが再検討の声が出てそれが通り、いろいろな案が出たが、結局、地名をとった「駒場祭」ということに全員一致した。やることは山ほどあっても、前例はないし、経験もない。企画、予算、手配、プログラム、ポスター等々。すべてに戸惑い、すべて議論の種になった。

またまた最大難関は、「非学術的なもの」すなわち寮デコである。この問題だけでも連日延々と交渉が続く。期日は近付いてくる。お互い腹の探り合い。学校側の肚―事前に検閲させるなら、学生側―ケンエツなどはとんでもない。しかし事前に見たけりゃ見ればよい。そうして、結論は、たしか、「学校側は前夜、全ての飾り付けを勝手に見る。学生側はそれを拒まない。結果を見て学校側が協議を申し入れてきたら、協議に応ずる」といった形になった。いよいよ前日が来た。各部も寮も準備がほぼ終わりかけている夕刻、教官理事の三先生が「勝手に」寮を見て歩かれた。学生側も「たまたま」同じときに同じところの準備を見て歩いた。寮を一巡して、先生方が「まァ、いいんじゃないですか」と話し合っておられたので、本当にホッとしたのをよく覚えている。本館の方は殆どご覧にならなかったと記憶する。

明くれば、昭和25年11月25日、第一回駒場祭の開幕。午前十時、第九大教室で記念講演が行われた。まず、矢内原学部長のご挨拶、続いて南原総長の記念講演。故両先生には誠に申し訳ないが、内容は全然記憶していない。それだけではない。展示も飾りつけも、催し事も完全に記憶から欠落している。無我夢中だったのだろうか。覚えているのは、最終日の夜、中寮前で盛大にファイヤストームをやって、寮歌からインターナショナルに至るまで、がなったことである。

(追記)いま東京大学は、当たり前のこととして、年二回ちょうど半年毎に学園祭をおこなっている。あの二月の記念祭が流産していなかったら、どうなっていただろうか。「結局あれでよかったんだよ」と矢内原先生はおっしゃるかもしれない。しかし、当時のご本心は本当はどうだったのか、お伺いする機会は永久になくなってしまった。

※この文章は、2000年の第51回駒場祭の50周年記念誌発行にあたり、小倉さんから寄稿いただいたものです。