月日は流れて三十年

西尾 貫一

安藤仁兵衛という名前が、国会議員選挙に登場したとき、「あ、あの安仁!」と、昭和二十五年秋駒場に突如として展開されたレッドパージ反対闘争(後から大野昭男君の本を読むと、夏休み中から計画されていたようですが)に、本郷から応援に来た彼を思い出し、あの当時の光景がまざまざと眼前に浮かんできます。教養学部創設二年目のときでした。

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教養学部発足のころ

神田 順治

最近、軍隊・企業・スポーツという座談会の中で加藤秀俊さんがこういっているのを読んだ。「orderというのは、これは絶対拒否することができないわけです。命令拒否はそのまま罪になるわけです。ところが、instruction、つまり指示を与えるという場合には、よりゆるやかな形なので、”そちらの方に誘導していく”わけで、談合の余地が残されています。それに従わなかった時の制裁は、それほどきついものではない。命令というのは、かなり一方的なもので、拒否することが罪になるという、非常に大きな特徴を持っているんじゃないでしょうか」と。最初の駒場祭を行うにあたって、第六委員会の先生が一番頭を悩ました問題は、寮デコその他展示で占領軍批判が表面に出ることだったと思う。これで、前年の一高記念祭では、木村健康、朱牟田夏雄、森繁雄等の諸先生は随分迷惑されたらしい。占領軍のCIEは日本の教育に指示を与えるが、命令はしないというのが建て前になっていたのだが、実際はinstructionが、orderであって、談合の余地など全くなくて、従わなければ強い圧力があったようである。

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第一回駒場祭での仮装行列「百姓一揆」

吉川 勇一
(よしかわ・ゆういち 元「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)事務局長、恵泉女学園大学講師)
1949年入学。文科2類。サークルは民俗学研究会、日本文化研究会に所属。

仮装行列

一枚の写真がある。第一回駒場祭での仮装行列に参加し、第三位で入賞した私たち「民俗学研究会」の写真だ。画面では読めないが、右端の武士が手にしている高札には、こう書いてある。

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クラス演劇「女学生の群」のことなど

定村 忠士

第一回駒場祭の「演劇」はいずれも九大教室(現900番講堂)で上演された。当時「九大教室」は演劇のための舞台がしつらえられる唯一の場所だった。

レヂ・ジュニウ作「道化の●」(演劇研究会、11月25日午後1時)、木下順二作「彦市ばなし」(同じく演劇研究会、26日午前10時)、モリエール作「女学生の群」(文科Ⅱ類1年5組D26日午前1時)、ゴールズワージイ作「”鳩”」(東大劇術回、26日午後4時)……プログラムには以上の四演目が音楽会や講演会、映画などにびっしり囲まれた格好でとびとびに並んでいる。

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レッドパージ反対闘争のこと

大野 明男(第一期生)

時代の基本的様相がちがってしまっているので、昔のことを語るには、やや遠回りな説明を必要とするようだ。 まず私たち「1949(昭和24)年入学の新制東大第一期生」が直面していた状況について、簡単に書く。当時の日本は、連合軍(主にアメリカ軍)による「占領」中であり、主食などの「配給制」がまだ続いていた。寮の食堂では主食が「とうもろこし粉の蒸しパン」で、「鯨のベーコン入りカレー汁」が上等な副食の1つだった。

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記念祭とかっぱ踊り

大森 義正

一高の記念祭

駒場祭の起源は、旧制第一高等学校(一高)の記念祭にまで溯るとされている。一高の記念祭は一高の終焉迄60回の回数を重ねて来た。

半世紀以上前のことで関係者の多くは物故され、又記念祭史として記録も遺されていないが、乏しい資料をもとにその概略について記すこととする。

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裏方から見た周辺雑記

中野 純(第一回駒場祭副委員長=広報・渉外担当)

プログラムが資金調達の”武器”

最近、同窓生の一人が保存していた第1回駒場祭のプログラムが見つかった。旧字体の漢字が方々に使われており、各企画の内容とともに、その時代を反映した貴重な資料だ。敗戦後、日本経済の復興もままならず、いろいろな物資が欠乏していた中、れっきとした活版刷りであった。今更ながら、よくやったものだと感慨ひとしおだ。

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教養学部開学から第一回駒場祭まで

小倉 寛太郎(第一回駒場祭委員長・昭24文Ⅰ-4)

占領下、明治以来の学制改革 1945年8月、4年近く続いて日本人320万人、中国を含めアジアの人々2000万人の命を奪った太平洋戦争は日本の無条件降伏でようやく終戦となった。翌月9月には連合国軍の日本進駐と占領が本格的に始まった。連合国軍といっても実質はアメリカ軍であり、アメリカ陸軍元帥ダグラス・マッカーサーが総司令官だった。マッカーサー司令部(略してGHQ)は「軍国主義、神道主義の日本の復活を許さぬ」との政策のもの、陸海軍の解体、開戦・戦争遂行の責任者たちの戦争犯罪人指名、それに次ぐものたちの公職追放、財閥の解体、不在地主制の廃止など、日本の政治、経済、社会に対して、大幅な改革を実施した。明治維新に匹敵するくらいの大変革だった。教育制度もその例外ではなかった。むしろ、GHQは戦前戦中の狂信的な神道主義・軍国主義の根源は教育制度にあったと考え、徹底的な変革を目指した。

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