レッドパージ反対闘争のこと

大野 明男(第一期生)

時代の基本的様相がちがってしまっているので、昔のことを語るには、やや遠回りな説明を必要とするようだ。 まず私たち「1949(昭和24)年入学の新制東大第一期生」が直面していた状況について、簡単に書く。当時の日本は、連合軍(主にアメリカ軍)による「占領」中であり、主食などの「配給制」がまだ続いていた。寮の食堂では主食が「とうもろこし粉の蒸しパン」で、「鯨のベーコン入りカレー汁」が上等な副食の1つだった。

そんななか、1950年6月、朝鮮半島で北朝鮮軍が韓国に攻め込んで戦争が始まる。当初は「北」が優勢で、韓国軍と米国軍は釜山周辺の一角に追い込まれて、懸命の防戦を続けた。まもなく、「国連軍」の看板を掲げ得たアメリカ軍が反撃の仁川港上陸に成功、「北」側は雪崩を打って退却。やがて支援の「中国義勇軍」が登場し、戦線は一進一退の停滞状況となる。戦況打開のため「原子爆弾の使用」を計画したマッカーサー総司令官が、トルーマン大統領により罷免される。 その朝鮮戦争の始まる20日ほど前にマッカーサーは、日本共産党に対し機関誌『アカハタ』の発行停止・幹部の「政治活動停止」という棚津を行い、全産業にわたって「レッドパージ(共産主義者・同調者の排除)」を求める書簡を発表。ついで「警察予備隊 (現自衛隊)」の創設を指令した。占領下の日本は、強烈な「戦時ムード」に覆われる。

そうした状況の中で9月、哲学者・天野貞裕文部大臣が「大学に対するレッドパージ実施」の方針を発表した。これを「なんとしても阻止せねばなるまい」と全額連や私たち自治会役員は考えた。 文部大臣の方針なのだから「モン分業制を麻痺させ、その打撃で、方針変更をやむなくさせよう」とねらいを絞り、9月末~10月初旬に予定されていた「前期試験」のボイコットを図った。 学生にとって「試験ボイコット」というのは、失敗したら、個人としての「生活設計」にも響く。言い出す以上、失敗は許されない、と決心を固め、学内のいたるところで「呼びかけ→討論→スト会議」を積み重ねた。「占領米軍の戦争」と「共産主義者への弾圧」が眼前に事実としてあったことが「呼びかけ」の実感を強めたのだろう。学生投票は「約1800対1000」の差で、「試験ボイコット・スト決行」を可決。 ストの2日前、正門前のピケット・ラインに警官隊が突っ込んで揉み合いになり、破られたが、ある学生が「ボクは警官隊がつくった道を通って受験しようとは思わない」と叫んだため、スト反対派の学生も動かず、矢内原学部長が南原総長に電話で報告のうえ、「試験中止」を発表する。そして天野文部大臣は「レッドパージの中止」を発表。 私たちは、1つの「勝利」を得た。その代償として13名の「退学・停学処分」があり、私自身は「復学」することもなかったが、この「10月闘争」のことを1度も公開したことはない。多くの学友も、ストに賛成した者も、反対した者も、「退学・停学」で「復学」まで遠回りを余儀なくされた者も、ほとんど全員が「後悔」などしなかったはず、と断言できる。私たちが社会人になってから自主的につくってきた「第一回駒場祭の会」が活力を持ち続けていることが、そのなによりの証拠だろう。

※この文章は、2000年の第51回駒場祭の50周年記念誌発行にあたり、大野さんから寄稿いただいたものです。