開催日時
1950年(昭和25年)11月25日、26日
テーマ
不明
概要
記念すべき第1回。設立されたばかりの学友会を中心に駒場祭委員会が結成されたが、矢内原学部長の「自主的活動だから援助しない」との方針のもとで財政的な困難に直面した。しかも初めての試みで、プログラムがどれだけ売れるのか、客がどの程度集まるのか等全く予測できなかった。駒場寮の敷布をちぎって作った「駒場祭委員長」の腕章をつけ、小倉寛太郎委員長が観客の人数を一人一人数えたという涙ぐましいエピソードもある。また当時はレッドパージの嵐が吹き荒れ、学内に私服警官やMPがもぐりこんでいた時代で、大学側が展示物の点検を行うことになっていた。政治的な展示は、点検がすんでから飾り付け、駒場祭が終わるとあわてて証拠品を隠滅したという裏話も残っている。駒場祭の全日程が終わった時、委員たちは「なにごともなかったなあ」と囁きあい、そしてその声が「インターナショナル」を歌う声に変わっていったという。第1回委員のレジスタンスだった。(第1回駒場祭が開かれるまでの経緯については、別に詳しく説明があります。)