神田 順治
最近、軍隊・企業・スポーツという座談会の中で加藤秀俊さんがこういっているのを読んだ。「orderというのは、これは絶対拒否することができないわけです。命令拒否はそのまま罪になるわけです。ところが、instruction、つまり指示を与えるという場合には、よりゆるやかな形なので、”そちらの方に誘導していく”わけで、談合の余地が残されています。それに従わなかった時の制裁は、それほどきついものではない。命令というのは、かなり一方的なもので、拒否することが罪になるという、非常に大きな特徴を持っているんじゃないでしょうか」と。最初の駒場祭を行うにあたって、第六委員会の先生が一番頭を悩ました問題は、寮デコその他展示で占領軍批判が表面に出ることだったと思う。これで、前年の一高記念祭では、木村健康、朱牟田夏雄、森繁雄等の諸先生は随分迷惑されたらしい。占領軍のCIEは日本の教育に指示を与えるが、命令はしないというのが建て前になっていたのだが、実際はinstructionが、orderであって、談合の余地など全くなくて、従わなければ強い圧力があったようである。
ところで教養学部発足当時、学友会と自治会の二本立てをどう運営していくかが大問題で、そのためだろう、第六委員会は錚々たる先生方をメンバーに揃えた。その先生方の中に末輩の小生が入っていたのは、矢内原学部長が「近日中に若いけれども優秀な学生課長が就任することになっているけれども、手続その他で遅れている」ということから、この期待の学生課長の友人の一人なので、彼の着任までの場つなぎに私は加えられたのである。優秀な学生課長というのは、申すまでもなく今日の西尾貫一東大名誉教授なのである。
矢内原学部長が一高の記念祭の形式は全くアナクロニズムだといわれた。そして駒場祭は、大学のお祭りなのだからもっとアカデミックでなければならないといわれた記憶がある。駒場祭のことからそれるが、矢内原先生のところへ運動会の説明に参上した際に、スポーツをやる者には、grob(粗笨)な人が多いと小生の顔を見ていわれたときは、全く恥ずかしかった。しかし、プロ野球パ・リーグの会長だった中沢不二雄さんは神戸一中で矢内原忠雄先生と同級生であったということを自慢していたが、スポーツマンの不信の責は、このあたりにもあるようで、私ばかりでないことを付記しておきたい。
※この文章は、1979年の第30回駒場祭の30周年記念誌発行にあたり、神田先生から寄稿いただいたものです。