クラス演劇「女学生の群」のことなど

定村 忠士

第一回駒場祭の「演劇」はいずれも九大教室(現900番講堂)で上演された。当時「九大教室」は演劇のための舞台がしつらえられる唯一の場所だった。

レヂ・ジュニウ作「道化の●」(演劇研究会、11月25日午後1時)、木下順二作「彦市ばなし」(同じく演劇研究会、26日午前10時)、モリエール作「女学生の群」(文科Ⅱ類1年5組D26日午前1時)、ゴールズワージイ作「”鳩”」(東大劇術回、26日午後4時)……プログラムには以上の四演目が音楽会や講演会、映画などにびっしり囲まれた格好でとびとびに並んでいる。

私が参加したのは文科Ⅱ類1年5組Dの「女学生の群」で、他のグループの上演はわずかにのぞき見た程度、ほとんど語る資格はない。が、わが東京大学演劇同窓会が発行した鵜飼宏明編『東京大学・学生演劇七十五年史ーー岡田嘉子から野田秀樹まで1919~1994』(清水書院発売・1997年)によって各グループの由来を垣間見ると、演劇研究会が本郷とは別組織で駒場に発足したのは新制教養学部第1回生の入学式直後、1949年7月の某日だった。半年後の50年3月には早くも第1回研究発表会(エミイル・マゾー作「休みの日」~かの有名な築地小劇場の第一回公演と同演目)をおこなっている。東大劇術会は先ず戯曲自体の研究を重んじその検証として舞台も考えるという色彩をもったとされるが、たしか旧制東京高校出身の諸君が主力だったと思う。ともかくこの第一回駒場祭の年は本郷、駒場をひっくるめて東大の中での演劇活動が一挙に拡大し、花開いた年として記録されている。駒場祭に先立つ10月には本郷劇研はじめ早稲田や学芸大、御茶の水大などの各劇団が共同して「きけわだつみの声」の合同公演(本郷25番教室)も実現していた。

さてそこで私たち文科Ⅱ類1年5組Dの「女学生の群」のことだが、なぜここがクラス演劇の先陣をきることになったか、ちょっとしたクラスの特色から述べねばなるまい。

「男女共学」が本格化したとされる新制大学といっても、まだあのころの駒場での女子学生の数は1クラスに3~4人がせいぜいといったところだった。ところが、なぜか私たちのクラスに限って総人数69名中に女子学生が11名もいた。今日の東大駒場の男女比の平均値6:1をも上回る女子学生の多さである。そのせいがあってか、クラスには当時としては珍しい独特の活気に満ちた華やいだ雰囲気が生まれていた。

この活気を育てた下地には、教養学部全体を巻き込んだレッドパージ反対・試験ボイコット闘争が生んだ結束と対立もあった。クラスの中でもこの闘争をめぐってかなり激烈な議論があったが、お互い言いたいことを言い合った仲だという部分が大きく、陰にこもったところはなかったように思う。クラス演劇はかえって再結集に格好の舞台だった。

誰が最初に「女学生の群」をやろうと言い出したのか、今となってははっきりしない。外国語にフランス語を選択したクラスだからモリエールの喜劇は順当なところだ。それにしても駒場の中では際立っていたクラスの女子学生をずらりと「女学生」に配役して上演するとはなかなかのアイデアだったし、それをすらりと受けて立った女子学生諸姉はすでにして大したものだった。

企画立案から上演まで約1カ月半そこそこの準備の過程は、とても忙しかったという記憶しかない。台本には戦前の新潮社版世界文学全集6『佛蘭西古典劇集」(昭和3年刊)の内藤濯訳を用いた。というよりそれしかなかった。今日のようにコピイ機などという便利なものはなかったから、手分けしてガリ版刷りを作るかカーボン複写紙を使って書き写すかしたはずだが、その時間もなくてめいめい神田の古本屋街などで上記の全集本を見つけてきたような気がする。新潮社版の世界文学全集はそれくらい出回っていた。

上演当日、舞台には裏方スタッフの奮闘で本格的なルイ王朝風のサロンが出現し、優美な衣装をまとった女学生、学者、似而非学者の恋の駆け引きが満員のお客をおおいに喜ばせた。クラスでは一歩年長の風で、最初は少々冷ややかな目でみなの熱中ぶりを見ていた渡辺文雄(俳優)も、稽古の土壇場では思わず名演技指導ぶりを発揮してしまっていた。 この文Ⅱ5Dのクラスは、2000年の今年秋にもほぼ半数のメンバーが同席して同窓会を開いている。ほとんど同時期にメンバーの一人、福田善之(劇作家)は、まさに50年前の自分たちの姿をもとに戯曲「ぼくの失敗・私の下町3」を俳優座劇場で上演した。ただしその舞台でクラスの演劇の演目は「女学生の群」から「ロミオとジュリエット」になっている。興味のあるかたには雑誌「テアトロ」(2000年11月号)をご覧いただきたい。

※この文章は、2000年の第51回駒場祭の50周年記念誌発行にあたり、定村さんから寄稿いただいたものです。