駒場祭が生まれるまで

この文章は第1回駒場祭開催までの大まかな流れをまとめたものです。内容は多分に専門的(関係者向け)ですが、かなり良くまとまっており、駒場祭の黎明期を記した数少ない文章になることでしょう。文責は井上 東氏です。(外山)


第1回駒場祭が開催されたのは、1950年(昭和25年)の11月25~26日のことである。ここでは、駒場祭が開催されるに至った経緯を記してみたい。

一高の紀年祭

駒場祭の起源が、旧制第一高等学校(一高)で行われていた「紀年祭」にまでさかのぼることはよく知られた通りである。それでは紀年祭はどのようにして始まったのかと言えば、1891年(明治24年)3月1日に一高の寄宿寮(向陵)の開寮1周年を記念して行われたのが最初である。この日、東西寮の食堂において、記念の茶話会を催し、立寮1周年が祝われた。参加者は約400人、赤沼金三郎(学生、寮委員)の演説、久原教授の祝辞、菊池謙二郎(学生)の挨拶の後、先輩の大学生や寮生が交々立って自治について論じ、また将来の希望を語りあった。その後剣舞数番が舞われ、歓談が行われた。この3月1日を寮の記念日と定め、紀年祭は、一高の廃絶まで一年も欠かすことなく続けられた。各室の「飾りつけ」が行われ、一般に公開されるようになったのは1893年(明治26年)の第3回の紀年祭からであり、「寮デコ」と呼ばれるようになる。この年からまた、気球を飛ばし、野試合や提灯競争、仮装行列などの催しが行われ、夜は食堂の茶話会に講談師や琵琶師を招き、剣舞などの余興も行われるようになった。その後「祭り」の形式は年によって、その時々の社会情勢や寮内事情から様々に変えられた。開催日は、1920年(大正9年)までは3月1日であったが、新学期が9月から4月に変更されたのに伴い、1921年(大正10年)は1月30日、1922年(大正11年)は1月29日、1923年(大正12年)以降は2月1日となったが、紀年祭は向陵の最も重要な行事の一つとして定着した。

紀年祭の実施内容は、事前に寮の総代会で決められた。当日の式典は、校長、生徒主事以下数名の教職員と全寮生が参加して、年々ほぼ同じ内容で行われたが、その前後の諸行事などについては、当時の寮内事情や社会情勢等を考慮して寮委員から提案され、長時間にわたる総代会の議論を経て決定された。一日で式典と飾り公開や諸行事を行う年と、二日、時には三日にわたって催す年もあった。

当時は、一高の敷地は、本郷区向ヶ丘弥生町(現文京区弥生)にあり、1935年(昭和10年)に駒場に敷地を構えていた農学部と敷地交換を行って、駒場に移っている。駒場に移ってからも寮デコは続けられ、政治や社会を風刺したものも多くあったのが人気を呼び、紀年祭の目玉となった。水泳部の河童踊りも紀年祭の時代から続く行事であり、1927年(昭和2年)頃にまでさかのぼるが、当時は衣装を付けての日本舞踊的なもので、終戦とともに裸踊りの形になった。音楽や演劇を呼び物として外部にも公開し、全寮晩餐会での自由な演説と寮歌、フィナーレは寮デコの残骸を積んで燃やしたファイヤーストームであった。戦後は喫茶室も数多く開かれ、まさに「お祭り」であった。戦時中は、開催日、開催地は変動を余儀なくされたが、「寮歌祭」、「文化祭」という催しも新たに始まるなど、紀年祭の開催に対する寮生の情熱は最後まで衰えるところを知らなかったといえよう。紀年祭末期の動きをまとめると次のようになる。

  • 1941年(昭和16年)2月1日 第51回紀年祭
  • 1942年(昭和17年)1月31日 第52回紀年祭
  • 1942年(昭和17年)6月7日 寮歌祭(第53回紀年祭)
  • 1943年(昭和18年)2月1日 第1回文化祭、寮歌祭
  • 1943年(昭和18年)5月15日 第54回紀年祭
  • 1944年(昭和19年)2月1日 第2回文化祭
  • 1944年(昭和19年)7月7日 第55回紀年祭
  • 1945年(昭和20年)2月1日 第56回紀年祭
  • 1945年(昭和20年)7月22日 第3回文化祭
  • 1946年(昭和21年)6月22日 第57回紀年祭
  • 1947年(昭和22年)2月1日 第58回紀年祭
  • 1948年(昭和23年)2月1日 第59回紀年祭
  • 1949年(昭和24年)2月4~6日 第60回紀年祭(最後の紀年祭)
  • 1950年(昭和25年)2月1日 寮歌祭

第1回文化祭では、芸術鑑賞会が開かれたとの記述が前述書にあるが、紀年祭とは別に文化祭を設けた意義、寮歌祭の起こりなどについては、今後の調査課題であろう。なお、「紀年祭」は、東京大学学生新聞、教養学部報などでは「記念祭」と表記されているが、一高側の資料の記述では一貫して「紀年祭」である。

運動会・学友会・五月祭

戦後の話の前に、全学的な学生団体の動きとして、その後教養学部の学友会、また駒場祭のモデルとなった、運動会、学友会、五月祭の存在について簡単に書いておく。1886年(明治19年)帝国大学運動会が設立され、1898年(明治31年)には社団法人東京帝国大学運動会となった。しかし、時代の変遷とともに、「本会をして、単に体育に依る心身の鍛練を図る以外、猶更に品性の陶冶、趣味の養成を図らんとする」(『東京帝国大学五十年史』)との理由で、1920年(大正9年)に至り、運動会は東京帝国大学学友会に組織を改めた。それにとどまらず、各部に属さない一般の学生も含めた学生の意思を正式に発表、実現しようとするための組織として学友会を改革しようとする動きが起こり、①全学生を会員とすること②入学の際に学友会費を納めること③全教職員は特別会員となることなどの具体策が決定した。1923年(大正12年)3月27日の評議会で大学側もこの方針を承認、翌1924年(大正13年)3月18日の評議会で定款と規則を承認し、初めて全学に渡る学内組織が結成されることとなった。教職員も加えるものだったとはいえ、学友会が学生自治の一つの拠り所として作られたものであったことは明らかだった。そして、1923年(大正12年)5月5日に新入生の歓迎会をかねた学友会の第1回学生大会が行われ、同時に行われた「大園遊會」が五月祭の起源となったのである。この日は、午前中は各学部を開放して機械設備や参考品を一般学生に観覧させ、正午から学生大会、午後3時から園遊会に移った。園遊会では、寿司、団子屋などの屋台が立ち並び、理化学研究所が鈴木梅太郎氏より寄贈されたビールやワインを振る舞ったという。園遊会は学内の学生相互の交流を深めることを目的とし、大学側と学生とが一体となって催されたものであった。面白いことに、当時の職員である石井勗(つとむ)氏が残している回想によると、学生たちの間に「一高紀年祭の大学版とでも言うべきもの」をやりたいという空気が生まれ、これを受けて大学側が検討を続け、開催されることになったという。五月祭も元をたどれば紀年祭にたどり着くのである。この学友会は、社会科学研究会の独立を巡って思想的対立が深まり、また、運動各部が学友会を脱退し、新たに運動会の設立に着手するなどの動きが生じて紛糾し、1928年(昭和3年)3月29日学友会理事会で解散が決議されて、創立以来わずか4年で解散することとなった。

新制東京大学

戦後、学制改革が行われ、1949年(昭和24年)5月31日に国立学校設置法が公布された。東京帝国大学は東京大学となり、一高は東京高等学校とともに東京大学に合併して、一高が使用していた駒場を教養学部に割り当てる形で、新制の東京大学がスタートした。東大は、1949年(昭和24年)に最初の新入生を迎えたが、1949年度には、学内にまだ一高の3年生がおり、最初の1年間は両者が同じキャンパスで学ぶこととなった。この年の6月8~10日に入学試験、6月23日に合格発表があり、7月7日に入学式が本郷の大講堂(安田講堂)で挙行された。新入生の数は1804人であった。そして、翌7月8日教養学部が開講されたのである。初代の学部長には矢内原忠雄教授が選出された。また、同年7月28日の教授会で、ナンバー委員会(第一~第七委員会)が設置され、学生に関する事項を扱う第六委員会の委員長には、木村健康教授が就任した。授業については、7月16日まで本郷で特別講演が行われた後夏休みとなり、実質的な授業が始まったのは9月からであった。

学友会の設立

学部当局側の体制は、着々と整っていったが、学生側の動きはどうであったのか。最初の新入生の入学直後の1949年(昭和24年)7月中には、早くも駒場の正門に、運動部、文化団体を作ろうというアピールが掲示され、7月16日に学生大会が開かれるなど、活発であった。そして、一高時代からの部・サークルを存続させた形で、運動部では、野球部、サッカー部、軟式テニス部、水泳部、ホッケー部、山岳部、ラグビー部など、文化系では、弁論部、哲学研究会などが活動していた。これらの部・サークルを回って積極的に連絡係を務めたのが、後の初代学友会議長で第1回駒場祭の委員長でもある小倉寛太郎氏である。7月下旬に運動部の代表者会議が発足、9月に入り、小倉氏らの呼びかけで十数の各部・サークルの代表者が集まり、学友会の結成に向けて準備を行い、その母体として文化・運動部代表者会議を作ることとなった。部・サークルの数は、一時運動部が15、6、文化サークルが40近くにまで膨れ上がるが、小倉氏の仲介で統合が行われるなど整理が進んだ。学友会の会則もこの会議で審議され、第六委員会との折衝の後、11月に学生投票により会則が承認された。11月10日に教授会も学友会の設立を可決、ここに学友会が発足した。学部側では、入学手続時に学友会費として一人あたり200円を徴収していた。入学金300円、授業料年間3600円の時代である。学部の公認する学友会ができれば、その費用で運営されることになっていた。執行機関である理事会の構成は、教官3人、学生側が文化部・運動部から各3人、クラス代表2人であり、初代議長に小倉寛太郎氏が就いた。教官理事には、木村健康教授(第六委員会委員長)、朱牟田夏雄教授(第六委員)、西尾貫一助教授(兼学生課長)がなった。誕生した学友会は、予算の作成と配分、「東大教養学部新聞」の発行、運動会、五月祭常任委員会への教養学部代表の学生委員の派遣などの活動を行った。特筆すべきは「東大教養学部新聞」で、「東京大学学生新聞」(現東京大学新聞)ですら、駒場祭を含め、駒場の情勢について詳しい記述が載せられるのは、駒場を経験した学生が本郷に進学する1952年(昭和27年)以降であるのだが、そのような中、当時の学生側の動きが分かるほぼ唯一の資料である。1971年(昭和46年)まで発行が続いたが、惜しいことに図書館にもほとんど残されいない。ところで、学生自治会については、8月から結成準備が進んだが、10月の規約採択の学生投票で賛成が過半数に達せず、結局12月まで遅れることとなる。

「記念祭」開催への動き

1949年(昭和24年)12月に入り、学友会は、学園祭をどうするかという問題に取り組むこととなった。従来からある五月祭に参加すればよいとの意見もあったが、教養学部独自のものを行おうという意見が大勢を占めた。そして、一高の紀年祭の伝統を受け継いで、2月に「記念祭」の名称で行うことで検討を開始した。教養学部独自の「記念祭」を2月に行うこと自体については、大学側もほぼ了承し、全学生へのアピール、寮委員会やクラス代表者会議との協議、傘下各部との打ち合わせ、調整が始まった。しかし、内容については教官理事から反対意見が相次いだ。1949年(昭和24年)の紀年祭での寮デコ「桃太郎の赤鬼島征伐」が占領軍を誹謗するものとされ、当時の天野貞祐校長が連合国軍総司令部(GHQ)民間情報教育局(CIE)の注意を受け、木村健康、朱牟田夏雄、森繁雄の各教授も始末書を提出するなど辞職問題にまで発展したという経緯があった。また、矢内原学部長は、事あるごとに旧制高校色、とりわけ「旧一高の弊風」を駒場から払拭することを強調し、「教養学部は新しい日本を担う教養ある国際人を育てるところ」「旧制高校のバンカラ、ムサ苦しさは野蛮で無教養の表れ」「学園祭は純粋な学術研究の成果を示すと学校当局が認めたものに限る」などと発言していた。教養学部報1951年(昭和26年)11月2日号には紀年祭との相違について次のように記されている。

「駒場祭は、研究修練の成果発表を主眼とするから、その性格において旧一高の紀年祭とは全く相異なる。一高の紀年祭の性格は、何人もこれを明確に規定した人はないが、全寮制を布き籠城主義に立つ一高生の平素は外部より窮知すべからざる特殊の生活の諸相を一般市民に赤裸々に―むしろ甚しく誇張して―公開し、もつて一般市民を瞠目せしめ、かつは(ママ)うっ積する青春の気を発散することが、事実上一高紀年祭の狙いであつたようであり、したがつてそれは研究成果の発表の機会ではなくして実際上はいい意味においてもわるい意味においても「お祭り」であつた。」

「駒場祭においても、研究や修練の成果の発表は、展示その他の催において行われるのであるから、これと別になされる「寮のデコレーション」は、おそらく一高の「飾り物」と同質のものとなろう。もしこのような「飾り物」が百に近い寮の室々で造られるならば一高時代からの連想も残つていることであるから、事実上駒場祭の中心は「寮のデコレーション」が占めることとなり、駒場祭は研究や修練の成果発表の機会という本来の性質を失うこととなろう。のみならず、一高の「飾り物」式の催しが、東京大学の学生にふさわしい水準のものであるかいなか、また戦後の激変した社会状態においてふさわしいもであるか否かについても、検討せらるべき点が少なくない。これらの点を考慮するとき、「寮のデコレーション」は、駒場祭の行事としては不適当なものと考えられるのである。」

「記年祭」流産

また、大学での研究のと研鑽の実績を市民に発表する場となっている五月祭と比較すると、発足して間もない教養学部では、大学生として市民に発表するべきものはないという学部長の意見もあった。また、旧一高生も同じキャンパスに残っていたから、下手に実行すると新旧の学生の間に摩擦が起きるのではないかと懸念もあった。これに対して、学生側は、学術の成果だけではなく、学生の生活、考え方をも表現するのも学園祭の意義だと主張、占領下での表現の自由の問題特に寮デコが焦点となって教官理事との折衝が続き、学部長との直接交渉も2度開かれたが、学部長の態度は変わらなかった。元旧制高の教授であり、学生側にも理解を示した理事の一人、西尾教授は板挟みになり、頬がこけ、年が明けてから白髪も急に増えたと、小倉氏は手記で回想している。結局交渉による妥協点は見い出すことができず、結局翌1950年(昭和25年)1月中旬学友会は2月の「記念祭」開催を断念することとなる。この年残っていた最後の一高生らは紀年祭をあきらめきれず、2月1日の午後6時から非公開で寮歌祭を行った。この時、一高と無関係な新制東大生は、「ホッテントットの踊り」と侮蔑し、なかには中止を要求する声もあったが、結局は妨害することなく、無視する態度をとった。この最後の寮歌祭には約300人が参加し、翌日の午前1時まで歌声が響いていたという(『東京大学学生新聞』1950年(昭和25年)2月16日号による)。同新聞では、この後学友会は、文化祭に一高の紀年祭を兼ねて3月3~5日に決行するべく双方より準備委員を出して準備を進めているとの記事がある。この計画がその後どうなったかは、調査不足でよく分からない。

「駒場祭」へ向けて―駒場祭委員会の発足

1950年(昭和25年)3月一高が廃止され、新制東京大学に完全に移行した。学友会も2期目となり、小倉議長が再任された。自治会も成立、消費生活協同組合駒場支部も発足し(正式発足は10月)、再び学園祭の話が持ち上がってきた。そこで、学友会内部で検討を重ね、11月に開催することを目標にすることを決定した。時期については、「紀年祭」が予定されていた2月案もあったが、待ちきれない、寒すぎるなどの意見が出され、五月祭とちょうど半年の間隔を置いた11月に開催することとなったのである。学友会議長の小倉氏が音頭をとり、自治会委員長大野明男氏、寮委員長前田知克氏、生協駒場支部(総務委員小倉氏)に協議を申し入れ、各団体から委員を出して紀年祭実行委員会が作られた。この時期についてだが、『駒場祭三十周年の会記念誌』では9月上旬となっているが、別の小倉氏の手記では夏休み前となっていて食い違いがある。委員長には小倉氏、副委員長に中野純氏、水越哲郎氏がなり、今の駒場祭委員会が誕生したのである。

 委員会ではまず学園祭の名称について検討され、「紀年祭」「教養学部祭」などの案が出たが、地名をとった「駒場祭」に全員一致で決まり、委員会の名称も「駒場祭委員会」となった。矢内原学部長が「自主的方針だから援助しない」との方針を示し、財政的困難に直面した。運営資金は、プログラムを全学生に5部ずつ買わせることで調達することとなった。ポスターは、中野純氏が描くことになったが、広告を入れる計画に学部側は難色を示した。その後品位を落とさないものなら黙認することとなり、「東大学力増進会」の広告が入ることとなった。「やることは山ほどあっても、前例はないし、経験もない。企画、予算、手配、プログラム、ポスター等々。すべてに戸惑い、全て論議の種になった。」と小倉氏は前述誌で述べている。キャッチコピーやスローガンの類はなかった。交渉にあたっての最大の問題は、やはり寮デコであった。この問題だけで連日交渉が続いたことが『東大教養学部新聞』に記されている。事前の検閲を求める学部側に対し、学生側がこれを拒否。11月9日の交渉で、第六委員会は、①高度の政治性を持たせぬこと②寮デコはやめることを申し出た。

「十月の事件から推して寮生の自治能力は疑わしく、寮内デコなどをやる資格はない、寮生は反省期にあるのであつて、そういうときに一般にみせる催しものとしてデコをやって駒場祭に寮生として参加することはやめてもらいたい」(『東大教養学部新聞』1950年(昭和25年)11月20日号)

寮デコを巡って度重なる折衝

「十月の事件」とあるのは、全学連の指導によりレッドパージ反対の試験ボイコット運動に関わったとして、大野自治会委員長ら10名が退学、3名が停学処分となった事件である。この時の交渉で、両者の間に最終的な申し合わせ事項が結ばれたとあるが、その内容などは不明である。また、11月21日に行われた交渉では、大学側の言うことは論理的ではないと指摘した駒場祭委員会に対し、木村教授は「問題ははじめから論理的でないのだ」と述べたと言われる。そして、同じ席で西尾学生課長は、官憲筋から駒場祭は慎重にやるようにとの注意が来ていることを語った。このように開催直前まで交渉は続いた結果、寮デコに関しては、事前にあくまで学部側が自主的に寮デコを見て回り、問題があれば、学生が協議に応ずることで両者が合意した。駒場祭前日の11月24日の夕方に教官理事の3人と駒場祭委員がともに寮内を一巡して歩いたが、協議の申し入れは来なかった。

第1回駒場祭当日

その翌日の11月25日午前10時、第9大教室(現900番教室)で行われた記念講演によって幕が開いた。記念講演では、矢内原学部長の挨拶に続き、南原繁総長の講演が行われた。寮デコに関しては、政治的な展示は、点検が済んでから飾り付け、駒場祭が終わるとあわてて証拠品を隠滅したという話も残っている。学内には多数の私服警官やMP(憲兵)が潜り込んでいたという。初めての学園祭なので、プログラムがどれだけ売れるのか、客がどの程度集まるのか全く予測がつかず、駒場祭当日は、駒場寮の敷布をちぎって作った「駒場祭委員長」の腕章をつけた小倉氏が、観客の人数を一人一人数えたという涙ぐましいエピソードもある。この他、河童踊りも水泳部の手によって行われ(委員会の勧めもあった)、音感が合唱を行い、美術研究会が展示を行った。美術研究会の展示については、駒場の同窓会館内でヌード・デッサン会を開いていることが物議をかもし、矢内原学部長から禁止を通達されたが、結局そのデッサンも当日出展された。これ以外に第1回の駒場祭でどのような企画が行われたか、現存するプログラム等の資料は今のところない。しかし、当時関わった人の多くが記憶しているのは、次のような光景である。2日間の日程が終了した時、委員たちは「何ごともなかったなあ」と囁きあい、その声が、中寮前の盛大なファイアーストームの周りで、寮歌に始まり、大学側から厳禁されていたインターナショナルを歌う声に変わっていったという。

参考資料

  • 『駒場祭三十周年の会記念誌』の小倉氏の寄稿を主に参考にした。
  • 『東京大学百年史』
  • 『第一高等学校自治寮六十年史』
  • 『第一高等学校自治寮六十年史年表』
  • 『東京大学学生新聞(東京大学新聞)』
  • 『東大教養学部新聞』
  • 『駒場祭プログラム』
  • 『プロムナード東京大学史』(東京大学出版会)
  • 『回想の東大駒場寮』(ネスコ社)