駒場祭史(第30回〜第39回)

大学紛争が終わり学生の気質が変化していくなか、駒場祭の企画にも変化が訪れることとなる。この時代には現在の駒場祭につながる多くの企画が登場している。
本稿では、現在の駒場祭の目玉企画を意識し、特に、文三劇場、ミスコンテスト(以下、ミスコン)に関して述べていくこととする。加えて、当時に特徴的な企画として、恋人リサーチにも若干ふれる。

文三劇場

1.文三劇場のはじまり

現在では駒場祭に欠かせない存在となっている文三劇場であるが、駒場祭の歴史の中では比較的最近誕生したといえる。
文三劇場とは、駒場祭で演劇を行う団体の連合体のことである。文科三類のクラスが中心となって成立したことからそのような名称となっているが、文科一二類、理類のクラスや演劇サークル、さらにはテニスサークルも参加することがあるなど、その受け入れる幅は大変広いものとなっている。
文三劇場の原点は1979年に部屋の獲得などで演劇を行うクラスが結束したことによる。クラスでの演劇参加は駒場祭の初期から存在はしたが、それらクラス間の連携はそれほど強いものではなかった。このときには文三劇場とは名のっていなかったが、1980年(第31回)、文三劇場として正式に成立した。
文三劇場の運営には各クラスから数名の運営委員が選ばれ行われる。部屋の獲得などの駒場祭委員会との交渉にあたり、舞台、照明、電気など技術面の進行を円滑に行う。
もっとも、当初は、演劇を行う全クラスが参加する形態ではなく、また、文三劇場という名称に対して、「文三ナショナリズムだ」との批判もあるなどした点は興味深い。

2.駒場小劇場との関係

このような文三劇場に対し、演劇系サークルを中心とした駒場小劇場というものがある。駒場小劇場とは旧駒場寮北ホールのことで、かの野田秀樹氏が学生課と交渉して使用できるようになったのが、その劇場としての始まりであると伝えられている。駒場祭などには特には関係なく年間を通じて公演が行われており、当時の駒場小劇場は先の野田秀樹氏の「夢の遊民者」の活躍により、演劇関係者の注目の的であった。
駒場小劇場の駒場祭での利用団体数は少なかった。それは、演劇系サークルの駒場祭への参加はそれほど多くなかことによる。各サークルは駒場祭後の11月末から12月にかけて冬公演を控えており、そのため駒場祭への参加は見合わせていたためと思われる。
このような状況にありながら、文三劇場成立当初は文三劇場は駒場小劇場を使用することはできず、旧2号館内の教室が使われていた。しかしながら、教室には恵まれず、その後、7号館(現在は1号館)に移ることになる。
当時の資料によると、小劇場の文三劇場による使用には議論があったようである。もっとも、後には、小劇場の利用団体が少なかったこともあり、文三劇場も使用できるようになった。

3.文三劇場の現状

文三劇場成立当時は駒場小劇場を中心としたまさに東大演劇界の全盛期だったともいえる。演劇はクラスでの駒場祭参加の定番でもあった。
これに対し現在では、模擬店人気の高まりや、クラス参加自体の低下により、演劇参加クラスはその全盛期に比べれば減少している。また、駒場小劇場は取り壊され、その後継は駒場小空間(多文化交流施設C棟)へと引き継がれている。
文三劇場は参加クラスの減少、運営委員の後継不足などで度重なる危機を向かえていると聞く。さらに、惰性で行っているとの批判がなされもしている。
しかしながら、今もって文三劇場の意義は薄れていないだろう。後に、文三劇場でのクラス参加がきっかけとなって小劇団が生まれることもあったと聞く。参加する各学生にとってはクラス内の結束を固め、親睦を深めるよい機会となっている。
今後も文三劇場がその役割を十分に果たし、さらなる発展をすることを期待したい。

ミスコンへの抗議

これもまた、今日の駒場祭では名物企画となっているが、現在のミスコンが始まったのはここ4、5年のことである。長年にわたり行われている大学もあるが、駒場祭では、新しい企画に属するといえる。もっとも、昔は全く行われていなかったのかというと、駒場祭でもかつてはミスコンもしくはそれに類する企画が行われていた。ではそれらはなぜ続かなかったのか。
それにはミスコンに対する強烈な抗議が存在したことがあげられる。現在でもそれほど変わりがないが、外部の注目を浴びるだけ、外部の団体との結びつきが強くなる。スポンサー宣伝など、外部の団体の営利につながる行為を行うことになり、企画の学生による自主的運営が阻害されることが問題とされている。
以下、実際に企画されたミスコン及びそれに類するコンテストの当時の状況を見ながら、ミスコンの歴史を概観していく。

1.アイドルコンテスト

当時の各大学の学園祭においては、ギャルコンテスト(いわゆるミスコンと同じ)が一つの目玉であった。各大学趣向を凝らしてコンテストを行っていたが、駒場祭では、アイドルプロデュース研究会(以下、アイプロ研)が「東大生が選ぶアイドルコンテスト」というコンテストを主催していた。このコンテストは1980年(第31回)から行われ、1981年には武田久美子さん(女優)が選ばれ、芸能界で華々しい活躍をされている。
さて、このコンテストに対する問題が顕在化したのは、1982年のことである。
それはまず、駒場祭への参加に関連して現れた。

・参加未定団体指定

この年、駒場祭委員会はアイプロ研を参加未定団体とした。参加未定団体とは、駒場祭への参加申し込みを行ったが、過去の駒場祭などで何らかの事件を起こすなどして駒場祭への参加が不適当であると委員会に判断された団体のことである。
この際、問題視されたことは、スポンサー宣伝であった。
委員会は、スポンサーの宣伝広告などすることは、当時の駒場祭規約の「外部団体と結びつき、その営利につながる行為を行ってはならない」という項目に違反していると考えた。
この点については、委員会がアイプロ研側広告代理店と直接交渉を行うこととなり、宣伝回数を減らす等の条件面で調整がつき、結局アイプロ研は駒場祭への参加が可能となった。
しかし、問題はこれで終わらなかった。

・当日の混乱

前述のように、委員会との調整の結果、なんとか参加にこぎつけたが、駒場祭当日に問題が発生した。
コンテストに反対する女性の有志が、突如、机にビラ貼りを行い、壇上に上るなどして抗議を行った。もっとも、彼女らはこのコンテストの一回目のときから反対・抗議をしていたらしく、アイドルプロデュース研側が自己批判書を提出し、撤回を行ったなどのやりとりが存在していた模様で、この年においても抗議をしようと代表者に連絡を取ろうとしたが、連絡がつかず、結局当日に至ったとされている。
反対派としては、当該コンテストが、
1.女の子を見せ物にしている点
2.東大性意識をあからさまにしている点
3.女性に点数をつける点
を問題視していたことがうかがわれる。
当日は、小泉今日子さん等の有名人ゲストやマスコミ、学生など多くの人が来場していたが、この混乱のなかで、結局コンテストは中途半端に終了することとなり、後日学外でコンテストは再び行われることとなった。
この後、このコンテストは行われなくなったが、アイプロ研はアイドルコンサートを行うなどして駒場祭には参加していた。それもしかし、1986年、スポンサー問題に対する駒場祭委員会の見解に反対し、結局アイプロ研は駒場祭不参加を表明することとなった。

2.東大生GALコンテスト

ミスコンが無くなってから数年後の1987年(第38回)、「東大生GALコンテスト」が東大遊人倶楽部という団体の主催により行われた。ちなみに、この団体については、先のアイプロ研が駒場祭・五月祭の参加など一定の実績があったのに対し、詳細が不明である。
このコンテストに対しても、やはり抗議が行われた。
今回は、「全ての差別に怒る弁天の会」と同会を指示する学生が、駒場祭前からビラを配り、直接行動を辞さない旨明らかにしていた。
主催者側は、女性差別ではなく、他大学でも行っているような単に軽いお祭り気分で行うものであり、東大生も本当は普通の大学生だということをアピールしたいと企画の趣旨を説明し反論したが、「弁天の会」側から弁解になっていないとの反発をうけた。
このような状況の中、駒場祭委員会は会場警備を増強していたが、当日、突然照明が消され爆竹を鳴らすなどされた。その上、変装した学生が花火のようなものを持ち900番教室に乱入、舞台に上がるなどステージ上で4、50人の大乱闘となった。東大遊人倶楽部側は弁天の会メンバーを監禁し、殴る蹴るの暴行を加えたとも伝えられている。
このように会場は混乱し、結局企画は中止となった。
ちなみに、この「弁天の会」も、当該コンテストの問題点として、
1.ギャルコンテストは女性差別
2.男性本位の競争(序列化)をあおる
3.スポンサー、学外マスコミによる取材
をあげている。

3.近年の傾向

はじめに述べたように、現在のミスコンは駒場祭の名物企画としてすっかり定着している。マスコミなど大学外部の注目を集めている点は昔と大差ないだろう。
近年の変化としては、女性差別をとりあげた抗議は明確にはなされていない点があげられるだろう。少なくとも筆者はそのような抗議の対応をしたことはないし、他の委員からも抗議があったという話は聞いたことがない。むしろ、マスコミなど外部からの問い合わせが非常に多く、そちらの対応に追われるぐらいである。
しかしながら、このように人気の高いミスコンもすべての問題が解決したわけではない。駒場祭全体に対して大きな影響を与える問題が残っている。
これら問題のなかで、近年では、スポンサー問題が顕著になっているといえる。その理由ははじめに記したとおりであり、駒場祭委員会の見解も基本的にはこの点変化はないと考えてよい。しかし、この点については近年有力な異論も主張されもしている。今後の議論の活発化が望まれるところである。

恋人リサーチ

模擬店などとともに、1970年代後半から広まり、80年代を代表する企画である。
具体的にはだいたい以下の手順で行われていた。
1.自分の連絡先を登録する。
2.自分とカップルになったという人のカードが送られてくる。
3.男は女に電話をし、女は男からの電話を待つ。
相場は250~300円で、コンピューター利用、複数(合コン形式的)などの形態も存在したらしい。
しかし、「いいかげん」、「暴利だ」との指摘もなされている。実際、企画者はあらかじめ自分たちの気に入った女性にチェックをつけておいて、あとで仲間内でそのカードを分配するなどしていたとの話が残っている。
近年では、恋人リサーチは駒場祭から完全に消滅してしまった。
しかし、新たに類似の企画が登場している。インターネット、メールの普及によりこれらを利用した企画が現れている。特に、いわゆる出会い系サイトを利用したものは注目に値する。今後どのように発展していくかがおもしろい企画である。

※上記文章は、第51回駒場祭(2001年11月24日〜26日)当時に執筆したものです。