駒場祭史(第11回~第29回)

60年安保の余韻の中で

 昭和35(1960)年に行われた第11回の駒場祭は、サブタイトルが「樺美智子さんにささぐ」とされたことからもわかるように、仮装行列や阿波踊りの盛り上がりでまさしく「青春祭」の様相を呈した前年第10回とはうってかわり、前年から繰り広げられていた60年安保闘争の影響が色濃い、政治的色彩の強調された学園祭となった。第11回の駒場祭委員会の委員長は、のちの東大闘争でも活躍した最首悟氏で、氏の言葉を借りればこの年の駒場祭は「民主勢力の内部に存する問題の解明、特に既存左翼に対する徹底的な批判を行い、あらたな反国民勢力の攻撃に対する我々の決意を表明しようとするもの」であるという。駒場祭は「青春祭」であるべきか、それとも「反体制」運動であるべきか、という議論は翌年の第12回駒場祭の開催に当たっても議論されたが、第12回の統一テーマが「反体制の新しいいぶきを」とされたように、60年代の駒場祭は政治色を強める形で幕開けした。

 第13回駒場祭(昭和37年)で多くの企画が取り上げた問題は、大学管理問題であった。60年安保の反省から大学への監督を強めようとする政府に対し、学生や教職員は大学自治の重要性を強調し強く反発したのだった。この年の駒場祭では、それまでのような短い語句の統一テーマでは意味がないとして、2枚にも及ぶ文章による委員会アピールが出されることになった。こうした学生の自治意識の高揚のためか、第14回(昭和38年)の駒場祭では、例年渋谷へ出かけ、名物にもなっていた仮装行列が、学部の了解を求める必要があるのかという問題を巡る対立のため、公式には中止されるという事態が生じた。そして、第16回(昭和40年)には日韓基本条約の是非が広く論じられるなど、時々の政治情勢を強く反映した企画や寮デコが多かった。
 こうした状況は、昭和43(1968)年から翌48(1969)年にかけての「東大紛争」への足音とも言えるかもしれない。まさにそう言えるのが昭和42(1967)年に行われた第18回駒場祭で、佐藤栄作総理大臣の訪米実力阻止のため羽田に向かおうとする三派系全学連(全国学生自治会総連合)が駒場祭第1日目終了後の駒場キャンパスに結集して羽田に出発するという事態が発生した。三派系全学連は一号本館(当時の1号館の名称)や900番講堂などを占拠し、退去を求める駒場祭委員会や学生自治会、学部教官らと対立した。結局は翌日の午前のうちに駒場からは退去し、駒場祭2日目の開催には大きな支障とはならなかったが、一連の羽田事件は騒じょう罪の適用も検討された大混乱であり、翌年からの東大闘争を予感させるものであったと言える。

東大闘争と駒場祭

1,「東大紛争」とは

 「東大紛争(闘争)」の端緒は、昭和43(1968)年2月19、20日の上田内科春見医局長かんづめ事件に対する医学部の(そして大学全体の評議会も承認した)12名の学生に対する処分であった。昭和42(1967)年時点から医学部では、青医連東大支部という左翼系の強固な卒業生組織と連動して、新卒の医師をほとんど無給で酷使するインタ-ン制度に反対するストライキ(授業放棄)が断続的に行われていた。その中で発生したかんづめ事件だったが、処分を決定する医学部教授会・評議会で処分の対象となる学生からの意見聴取が行われないまま処分が決定され、さらにこの処分の対象となった学生のうち1名は当日九州におり、かんづめ事件の現場にいるはずもない学生だったことから、この処分に対して医学部を中心に学生の強い反発が起こった。この年の卒業式は医学部生らによる安田講堂封鎖の結果中止され、6月には医学部生らにより安田講堂が占拠された。
 この運動は、安田講堂を占拠する学生等を排除するため6月17日に大学当局が警察力を大学構内に導入するに及んで、闘争委員会を名乗る新左翼のみならず旧左翼勢力を含めた広範な学生による動きへと展開した。警察力導入の結果、新左翼勢力の活動は一般学生にも浸透してますます活発になった。まず6月19日に文学部学友会(文学部の学生自治会に当たる組織)で無期限ストライキに入り、大学院経済学研究科の院生、新聞研究所の研究生がこれに続いた。学生らは大学当局との「団交」を要求し、6月28日には総長による説明のための「会見」が開かれた。会見は学生側の議長団の構成を巡り新左翼系の文・経済・教養学部の学生自治会と、民青系(旧左翼勢力)の法・工・理・農等の学生自治会中央委員会勢力が対立したまま開始されたが、総長は「団交」を拒絶したため、6月29日には民青系の法・工・教育学部でも一日ストライキが行われた。
 このような(特に無期限の)ストライキなど、過激な戦術を積極的に採用したのは新左翼勢力だった。7月5日に各学部の「ストライキ実行委員会(スト実)」を中心に東大闘争全学共闘会議(全共闘、山本義隆議長)が組織され、全学無期限スト、全学封鎖を主張した。夏休み明けには医・工・文・経済・教養学部のほとんどが学生によって封鎖され、教育研究活動はほぼ完全に機能停止するに至った。もちろん、翌年の入学試験を睨み解決への努力も模索され、11月の評議会では発端となった医学部学生の残り11名に対する処分も撤回され、時の大河内総長も辞任を表明し加藤一郎法学部教授が総長事務取扱(代行)に就任したが、事態は解決には向かわなかった。それどころか、11月12日には本郷で、11月14日には駒場で全共闘系学生と民青系学生との衝突が発生し、また22日には安田講堂前での全共闘の全国総決起集会(東大と日大を中心に全国から全共闘勢力が結集した)が行われ、対抗する民青系も外部勢力を多数結集させるなど、構内は学生同士の対立も孕み、ますます緊迫していった。

2,「紛争」真っ只中の駒場祭

 「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」。このフレ-ズをどこかで聞いたことはないだろうか。女性の学生が5分の1にも及ぶ現在ではいささか問題があるようにも感じられるこの文句は、当時文科三類2年だった橋本治氏が描いた第19回駒場祭のポスタ-に記されていた言葉である。第19回駒場祭は、「東大紛争」のまさに真っ只中の昭和43(1968)年11月に駒場キャンパスで「自主管理」開催された。この駒場祭は、紛争中で7月5日以来教養学部(駒場)でも無期限ストライキ中であったことから、学部との交渉を行い学部の協力を得ることはできず、文字通りの「自主管理」学園祭となった。現在の駒場祭も、「学生自治」「学生の自主的活動の発表の場」という理念から「自主学園祭」を標榜してはいるが、必要な資材、設備の貸与など実際には多くの面で学部の協力の下に駒場祭は挙行されており、学部の有形、無形の協力のない駒場祭などはその開催すら危ぶまれる。近年も早稲田大学や明治大学で大学が協力を拒んだ結果学園祭が中止されている。しかし、第19回の駒場祭はキャンパスを学生が占拠し管理していたため、とりあえずの開催は可能だった。そして駒場祭当日は、封鎖されていた各建物もその封鎖を解かれ、久しぶりに学内に人が溢れた。
 第16回(昭和42年)頃から、駒場祭で学生の取り上げる政治的なテーマはベトナム情勢が多かったが、第19回駒場祭ではやはり目下進行中の「東大闘争」をテーマとして取り上げた企画が多かった。まさに「バリケードの中の学園祭」であったわけで、社会的関心も強く事前に新聞・雑誌で取り上げられることが多く、一般の観客も駒場に多数訪れた。企画の展示内容は、ストライキ中とは言っても学生が登校していなかった訳ではないので、困難ながらも準備は進められたわけだが、やはり準備不足は否めず常識的な東大闘争の解説の域を出なかったという。
 駒場祭では、この2年前の第17回ころから学生やサークル数の増加などを理由に開催期間をそれまでの2日間から3日間にするよう学生側が主張し、学部はこれを授業時間数の確保や、本郷での五月祭を例に「東大での学園祭は2日間となっている」ことなどの理由から拒んでいたが、第19回駒場祭は「自主管理」だったこともあり11月22日から24日までの3日間に渡って開催されることになった。準備不足を理由に、結果的には22日の学内公開は延期され2日間の開催になったのだが、この第19回駒場祭以降、駒場祭は現在まで3日間での開催となっている。
 第19回駒場祭を運営する第19期駒場祭委員会(宮崎委員長)は、新左翼系であるフロント(構造改革派系の社会主義学生戦線)によって構成されていた。そのため民青系勢力と対立し、本来の駒場祭委員会は教養学部学生自治会、教養学部学友会、生協、学生会館委員会から選出されるべきところ(選出によって教養学部学生の代表機関ということになる)、学生自治会からの3名の委員の選出を受けることなく発足していた。学生に対しては10月5日になってようやく「駒場祭ニュ-ス」というビラを発行することで参加の呼びかけを開始し(日程としてはかなり遅れている)、一方でその構成の偏りなどに関して民青系からの批判を受けた。
 「紛争」の影響は委員会の予算面でも大きく、当時は例年拠出されていた大学からの30万円の援助金、同窓会からの10万円の援助金は、いずれも大学非公認の学園祭に出されるはずもなく、さらに準備不足からプログラムの広告による収入も激減し財政的にはかなり厳しい状況だったという。一般の来場者が多かったことでポスター・プログラムの販売収入が伸び、結果的には破綻を免れたが、財政面でも委員会は薄氷での運営を迫られていたと言えよう。
 なお、駒場では駒場祭がまさに挙行されていた22日、本郷で全共闘の全国決起集会が行われていた。また、駒場祭終了直後には駒場でも流血を伴う学生集団(セクト)同士の衝突が発生している。そのような情勢の中で、駒場祭ははたして学生にとっての一息の休息となったのであろうか。

3,「紛争」の収束

 駒場では12月に入り、それまで早稲田大学で行われていた社青同解放派と革マル派という新左翼勢力同士の衝突が行われるようになり、多数の負傷者を出した。12月13日には民青系とクラス連合(ほぼノンセクト)が事態打開のために教養学部学生自治会の代議員大会を開催したが、全共闘系学生が多数突入したことによって学生及び教官が数多く負傷した。
 12月16日には大学当局と七学部(民青系となっていた法・工・理・農・経済・教養・教育の学生自治会)代表団(他に教養学部後期の二学科、大学院五系、看護学校の学生自治会を含む)との公開予備折衝が行われる予定になっていたが、全共闘系学生が会場を事前に占拠したため中止された。この後も学生同士の対立は厳しく行われたが、12月25日に法学部緑会(学生自治会に当たる。法学部は10月12日に10学部の中で最後に無期限ストライキに入っていた)が、26日に経済学部学生自治会が、27日に教養学部教養学科が無期限ストライキを学生大会の決議によって解除し、26日に七学部代表団と大学当局との非公開の折衝がもたれるなど、徐々に収束の兆しを見せ始めてもいた。
 12月29日には翌昭和44(1969)年の入学試験の中止が発表された。そして、昭和44年1月10日に大学当局と七学部代表団との公開全学集会の開催が決定したため、1月9日には構内の封鎖を続ける全共闘の排除のため、大学によって警察力の出動要請がなされた。1月10日の秩父宮ラグビ-場での七学部代表団との交渉(学生約7500名が見守っていた)では、後に文部大臣となる町村信孝氏が学生側議長となり(本人は自分で勝手に名乗ったとしている)途中全共闘の乱入があったものの10項目の確認書が作成、署名された。この確認書は基本的に民青系の要求に従って作られており、学生が大学の自治を構成する一つの主体であることが確認されるなど、画期的な意味を持っていたとされている。ただ、代表団を構成した七学部二学科五系一学校の学生自治会でさえ確認書の全てに合意できた訳ではなく、項目ごとになされた署名は、学生を大学自治への一主体として確認した項目も含め多くが「一部(学部の)署名」ということになっている。
 しかし、これによって全共闘による大学構内の封鎖は解かれたわけではなく、大学当局の要請によって出動した警察力による全共闘の排除、つまり世に言う「安田城攻防戦」が1月18日早朝から19日夕方にかけて行われた。ヘリコプタ-から撮影された安田講堂への放水シ-ンが最も有名であろうか。現場の総指揮を採ったという佐々淳行氏によれば警察官も命懸けであったということだが、確かに火炎瓶が飛び交うなか警察は、警棒とジュラルミンの楯を武器に何層ものバリケ-ドを撤去し、学生を次々に検挙した。そして「紛争」は終結した。

4,「紛争」その後

 1月19日に構内から学生は完全に排除されたが、その後も本郷では22日早朝まで入構が禁止された。紛争の終結を受けて大学当局は入試の実施を求めたが、文部省は混乱への懲罰として入試を中止させた。東京大学で入学試験が行われなかったのは、現在までの122年の歴史上この1回のみである。「紛争」による被害は当時の価値で4億5千万円と見積もられたが、特に安田講堂は以後数年間使用できなかった。1月10日に七学部代表団によって署名された確認書は、2月9日の評議会で大学当局も正式に承認し、2月11日の二度目の大学当局と七学部代表団との交渉の席上で、七学部の全部が署名した15項目を「これが双方を拘束する正当性を持った決定」とした上で加藤総長及び七学部二学科等の学生代表が署名した。
 さらに、全学としての確認書と前後して教養学部の中でも生自治会と教授会との交渉が行われ、1月20日にやはり確認書が締結された。この確認書は、全学としての確認書同様、学生の自治の確立と学部の自治における学生の位置付けを内容とするものだった。この確認書では、それまでは年ごとに選出方法を確認し委員の名簿を学部に提出させたうえで学部との交渉権を認められていた駒場祭委員会も、委員名簿を提出することなく恒久的に学部との交渉権を公認されることになった。
 昭和44(1969)年の入学試験が行われなかった結果、駒場が入学者を迎えることができなかったのみならず、本郷に進学予定だった2年生の進学も約半年に渡りなされなったため、昭和44(1969)年春の本郷での五月祭(東京大学全体の学園祭)は、中止されてしまった。しかし、本郷へ3年生を送り出し、2年1学年のみとなった駒場ではこの年の10月にも第20回駒場祭が開催された。そこでは、委員会アピールなど公式な場面でこそ東大紛争などの学生の運動の成果と反省を、70年代の学生運動に継承しなければならないということが謳われたが、実際には喫茶店やステージ企画に代表される祭の娯楽的側面がこの第20回を契機に一気に強まっていく。

喫茶店・屋外模擬店の興隆

 東大紛争やベトナム反戦運動が強まる第17回(昭和41年)ころまでの駒場祭では、飲食をする場所と言えば、学生会館前から駒場寮前にかけて行われた駒場寮の寮祭企画の模擬店・喫茶店がほとんど唯一の存在であった。種類は一つということではなく、数店舗が軒を連ねていたため華やかな駒場祭を支えてはいたが、現在のように屋外は模擬店、屋内(特に1号館)は喫茶店で溢れるという状況ではなかった。駒場祭での企画の実行主体は、本部企画を行う駒場祭委員会を除けばクラスとサークルだが(当時は、現在では非常に少ないクラスでの参加が例年100近くにのぼっていた)、いずれも社会問題や東大生の生活を展示形式で発表するものがほとんどだったのである。
 しかし、第18回駒場祭においてコーヒーを飲みながら「安保」談議をするという「安保」喫茶がクラス企画として3つ屋内に登場して以降、寮祭以外の屋内での喫茶店企画が激増していった(以下は寮祭を除く駒場祭の状況)。まず、第19回ではモダンジャズ喫茶、演劇喫茶など約10店の喫茶店が営業し、紛争を終え「お祭り」を取り戻した第20回ではおにぎり屋、縁日といった喫茶店の形態も登場した。当初の喫茶店は、「安保」喫茶、モダンジャズ喫茶、演劇喫茶といった名前からも分かるように、ただコーヒーやケーキを出すということではなく、何らかの発表を見てもらう形として喫茶店が行われていた。しかし、約25店をかぞえ現在のように「1号館が喫茶店だらけ」と言われるようになった第21回(昭和45年)に至るようになると、ただ「喫茶店」を行うクラス・サークルが多くなり、特に教官や駒場祭委員会からは、「自主性もなく」「金儲けの手段」となった「芸のない」喫茶店に対して従来以上の批判がなされるようになった。
 こうした模擬店や展示を行うサークルが増加した結果、駒場の建物は大変に混雑するようになった。一教室に四、五団体が割り振られるということも珍しくなくなり、これへの自己防衛として各団体は教室の確保のみを目的とするダミーサークルを参加させるようになった。ダミーサークルの登場による企画数の増加は、さらなる教室不足をもたらし、こうした悪循環もあり、第25回(昭和49年)以降、駒場祭は毎年のように参加企画数の最高記録を塗り替えていった。
 屋外での模擬店は、第21回ころから弓術部の汁粉屋などが寮祭以外でも銀杏並木などで始めていた。それでも第24回(昭和48年)までは寮祭を除いては3、4店といったところだったようだが、第25回(昭和49年)に激増をとげた。当初屋内で喫茶店に流れたのが主としてクラス企画だったのに対し、屋外での模擬店を激増させたのは主として運動系サークルだった。駒場寮に部室を有するような運動系サークルは運動会と言われる公式の部活動が多かったのだが(これらは寮祭に参加)、運動会のように厳しい練習ではなく趣味として運動を行うサークルが駒場で勢力を伸ばしたこともあって、銀杏並木がまさに模擬店で埋まっていくような状況になっていった。
 このような喫茶店・模擬店の増加に対して、駒場祭委員会は企画数の増加による参加者の拡大という点では好ましく思っていたものの、内容のある展示や演劇が減少してしまうことについては問題性が指摘されていた。また、折から委員会予算も厳しさを増しており、それまで5000円から6000円分が委員会から各企画に援助されていたが、第25回(昭和49年)の駒場祭からは模擬店・喫茶店に対してこの援助が打ち切られた。この措置は、有収入企画へは援助を行わないという形で現在まで続けられているが、現在でも模擬店・喫茶店が駒場祭の「お祭り」としての華やかさの一部分を演出しているのはご覧のとおりである。

グランドフェスティバル・ステージ企画

 1月に安田城攻防戦が行われ東大紛争が終息を見た昭和44(1969)年の第20回駒場祭は、前年までの反動のためか「お祭り」色を色濃く復活させた。第10回(昭和34年)までの「青春祭」という形ではなく、華やかである意味で騒々しい祭へと転換したのが第20回この駒場祭だった。
 その「華やかさ」の象徴が、この年から正門と1号館の間のロータリーに舞台(ステージ)が設置され始まった「グランド・フェスティバル」だった。この舞台は、7m×13mの大きさで(現在は、5.4m×7.2m)、また照明装置も付いていない手作りのものだった。駒場祭委員会の意図は、「従来分散的だった各々の企画を集約する」「正門前躍進の広場」というもので、「団結を!連帯を!-統一の旗のもとに-」というこの年の統一テーマを具体化するものとして打ち出された。現在はこのステージでは3日間に渡り学内バンドが交代で演奏しているが、第20回では最終日の15時以降、学外演劇グループを特別出演させたり、落語、空手演舞、合唱などが披露され、18時過ぎには大フォーク・ダンスが行われた。第21回(昭和45年)以降もこのような最終日の「グランド・フェスティバル」が定着するが、その後ステージ上のパフォーマンスではロック・バンドが増加していった。それと同時にこの正門前ステージからの騒音が問題とされ、毎年批判と反論、是正が繰り返されていくことになる。
 第24回(昭和48年)からは、グランド・フェスティバル以外でも大掛かりなステージ企画が増加した。第24回駒場祭には、日本フィルのコンサートが900番講堂で開催され、チューリップも呼ばれた。第26回、第27回には、東大生演歌歌手として注目されていた山本智恵美さんがステージを行い、第29回(昭和53年)にはアグネスチャンさんやサザン・オールスターズが駒場祭に出演した。
 また、ステージで行われる企画以外にも、祭りを彩る華やかな企画や娯楽的な企画は増加し、第28回では仮装行列も復活した。仮装行列は約25名の警察署員が交通整理に当たるなか駒場と渋谷とを往復し、教官による審査も行われた。

後片付けを巡って

 駒場祭が華やかさを取り戻すに従って、駒場祭の後片付けの問題が大きな問題として登場するようになった。地味な話ではあるが、大学が基本的には教育・研究の場である以上、駒場祭が終わった後もいつまでも駒場祭の雑然さが駒場キャンパスに残っていては具合が悪い。ましてや、講義に支障をきたすようになっては駒場祭の存立が問われることになりかねない。
 後片付けを巡っては、第23回(昭和47年)頃から「汚すぎる」「だらだらといつまでも続けていて講義に支障をきたす」「学生が学部の清掃職員に過大な尻拭いをさせている」などの声が教官から上がり、駒場祭委員会との交渉においても学部は「このままでは放置できない」と強い姿勢で駒場祭委員会に対応を迫っていた。駒場祭委員会も、各企画に最終日の翌日朝からの講義に支障をきたさないよう清掃の徹底と早期の完了を呼びかけるなどしていたが、あまり成果は見られず毎年のように後片付けについては問題として指摘されていた。
 そこで第26回(昭和50年)の駒場祭では、最終日の翌日月曜日の午前の講義を休講とし、その時間を徹底した後片付けにあてることを駒場祭委員会が提案し、学部も試行的ながら受け入れた。学部は「試行的」に駒場祭委員会の実行力を試してみたとも言える。この年の委員会は、この翌日午前の後片付け休講を活用するとともに、各企画から後片付け責任者を各一名出させることで責任を明確にさせ、各建物、各階ごとに連絡、協力体制を整えた。これらの措置の結果、この年は翌日の昼頃には「すっかり駒場キャンパスがきれいになり」「前日の騒ぎが嘘のよう」になった。学部も予想以上の成果と評価し、翌年以降もこの後片付けのための最終日翌日の午前休講は継続され、現在も続いている。なお、このような経緯のない本郷での五月祭には、このような学園祭終了翌日の休講は存在していない。

※上記文章は、第51回駒場祭(2001年11月24日〜26日)当時に執筆したものです。