駒場祭史(第1回~第10回)

寮デコレーションの復活

 紀念祭の目玉であった寮デコレーション(寮デコ)は、先に述べたように第1回(昭和25年)の駒場祭では、学部側が難色を示したため実現しなかった。第2回(昭和26年)の駒場祭にあたっても、学部側は駒場祭は研究成果の発表をその中心とするべきであり、一高のノスタルジーは時代遅れだとまで言い切っており、断念せざるを得なかった。ところが、翌第3回(昭和27年)の駒場祭では学部側が一転して寮デコレーションを認め、むしろ推奨するような発言も見られる。学生側の記録では、いわゆるポツダム政令の廃止もあったことから復活を主張し、遠藤郁夫駒場祭委員長が強引な交渉の末認めさせたことになっているが、教養学部報を読むと、第六委員長を務めた市原豊太教授の理解によるところが大きいことがわかる。市原教授は、これまでの2回の駒場祭は必ずしも一般学生の関心が高くないことに気をもみ、面白いもの、楽しいものも必要だということに理解を示して寮デコの復活に意欲を見せ、「どうせやるなら全寮的にやってはどうか」と提案した。また、教官の審査で優秀作を決めて表彰することとなり、約60室が参加した。昭和27年(1952年)10月28日に取り交わされた「駒場祭に関する申合事項」には、「駒場祭は、教養学部学生の研究、文化活動の成果を発表することを以て主眼とし、一般市民との交歓をはかる」とあり、諒解事項として「寮内デコレーション・仮装行列等を禁止する理由とはしない」と付記されている。その後ピーク時には全室の2/3以上にあたる120室もの参加があるまで盛んとなるが、審査を行った教官のコメントは芳しくないことが多く、「類型的」「ウィットに欠ける」「露骨に政治的」との批判が相次ぎ、飾り付けで諷刺精神を示す時代ではないとまで言われる。優秀作とされた作品をいくつか紹介しよう。

  • 「象徴はあくまで象徴である」(皇室をほめたたえる宣伝文と大小二個の松茸が佇立しているだけ。第3回駒場祭)
  • 大根のラインダンス(5体の操り人形の足に大根が使われつり下げられている。第4回駒場祭)
  • 「青銅のマルクス」(日ソ交渉の年。第6回駒場祭)
  • 「美しき青春のために バレー「白鳥の湖」より」(第6回駒場祭)
  • 「珍釈枕草子 片腹痛きもの」(第7回駒場祭)
  • 「キシサン」(「血税」が岸首相の口から入って消化されると「軍備」になってしまう。第9回駒場祭)
  • 「神話」(ヤマタノオロチとスサノオノミコトが藁人形で表現されている。第9回駒場祭)

批判の中、駒場寮では、第10回駒場祭(昭和34年)の頃から、寮デコだけでなく、寮の日常生活を紹介するため、寮内や寮周辺に喫茶室を設けたり、寮のオリエンテーションやモデルルーム展示などの企画を打ち出すようになる。駒場祭企画としての寮デコは第21回(昭和45年)を最後になくなり、その後時々寮祭の行事として復活するが、最近では全く行われていない。なお、寮祭は当初から駒場祭とは別に寮生の間で実行委員会が作られて運営されていたのだが、初期の頃は、寮デコの案内等を含め、駒場祭のプログラムの中に掲載されていた。寮祭についての資料は乏しく、はっきりとしないのだが、1980年初頭に行ったのが最後のようだ。

スローガンをめぐって

 現在では、スローガンという言葉自体死語に等しいのではないだろうか。全体主義的匂いの漂う「スローガン」は、「アピール」「統一テーマ」「テーマ」という表現になり、近年では「キャッチコピー」となっている。「スローガン」の時代には、その時々の世相や学生気質がよく現れていた。最初にスローガンが掲げられようとしたのは第3回駒場祭(昭和27年)である。サンフランシスコ平和条約が発効したこの年、駒場祭委員会では「反戦平和」をスローガンにしようという意見が出たが、学生の間で、再軍備に賛成の学生だっているとの反対意見が出され、第六委員会との交渉でも、政治的色彩を帯びるのは好ましくないということになり、取りやめとなった。しかし、ページェント(後述)では「平和をかちとる意志」がテーマとされた。多種多様な企画を抱える駒場祭のスローガンは無理でも、一つの舞台の上でならテーマを設けることは可能だと判断したのだろうか。このページェントは成功裡に終わり、おそらくその影響から、翌年の第4回駒場祭(昭和28年)では「平和と友情のために」がスローガンとして採用された。自衛隊法が公布された年で、寮デコでもこの問題を扱ったものが多かった。その後、第5回駒場祭(昭和29年)で政治団体のビラを撒こうとした寮生が第六委員会に差し止められ、駒場祭は学生の自主的な活動によるものであるべきだとする告示が出されたこともあり、学部側が政治色に警戒を強めていく。第7回駒場祭(昭和31年)では、「(1)平和と民主々義と独立のための創造的文化を (2)学問の自由と学園の自治を守ろう (3)市民と学生との交流を」というスローガンを掲げようとするが、今度は寮デコにも批判的であった矢内原総長からストップがかかり、モットーと呼ぶことになった。第8回駒場祭(昭和32年)では、「(1)平和と民主主義を守ろう (2)創造的文化の建設と発展のために (3)原子戦争準備反対」のスローガンが掲げられるが、(3)のような、抽象的目標にとどまらない方針を示したスローガンには駒場祭委員会内にも反対意見が多く、僅差で可決されたという。「平和」と「民主主義」の形のスローガンは、その後第11回駒場祭(昭和35年)まで続く。第9回駒場祭(昭和33年)からは、スローガンに沿った本部企画をたてられるようになるが、逆に言えばそれまでのスローガンは、キャッチコピー的存在であったことを表している。学部側もすでにスローガンを作ることには容認の姿勢を打ち出すが、内容については、依然、駒場祭ではいろいろな主張がある方がよいという見方で、教養学部報の記事でも度々そうした指摘がなされている。しかしこの回以降政治的色彩は強まる一方となり、プログラムでもスローガンが大きくアピールされるようになっていく。その1つのピークを迎えたのが第11回駒場祭(昭和35年)であった。

当時の企画内容

 駒場祭の企画内容は、展示、演劇、音楽演奏、映画、講演会、スポーツ大会といったもので、屋外では河童踊りやダンスなどがあった。模擬店や喫茶店といった飲食物を扱う店は、生協と寮祭で出されていた他は、柏蔭舎でのお茶会があったのみである。これには学部側も、金銭の授受は、正門前のプログラム販売のみと厳しく定めており、駒場祭委員会でもこの方針で臨んでいた。また、当初はプログラムを買わなければ正門を通してくれないようになっていたため、学生自治会などは「フリーパスにするべき」として反対していた。第10回駒場祭では、寮委員会が寮食堂でダンスパーティーを開こうとしたが、駒場祭委員会が不許可とし、不足分の経費は駒場祭委員会も負担した。このためかどうかはわからないが、その後は学部側も「ダンスパーティーは例外」として企画の営利行為を認めることとなり、これ以後なし崩し的に喫茶店、模擬店等が登場することとなる。

クラスの演劇への取り組み

 現在、駒場祭では文三劇場を目玉の一つとしており、委員会からも多くの援助を行っているが、演劇の企画も古くからあったものの一つである。文三劇場運営委員会が取りまとめを行うようになるのは第31回駒場祭(昭和55年)からだが、多くのクラスが駒場祭に参加するようになったのは第3回駒場祭(昭和27年)からで、中でも最も多く取り組まれたのが演劇であった。展示を行うクラスも多かったが、より多くの人が企画の完成に直接関わることができる点もあり、駒場祭委員会もクラスで演劇を行うことを推奨していた。演劇企画自体は、第1回駒場祭(昭和25年)からあるが、この時は、サークルのみでわずか4企画だった。第5回駒場祭(昭和29年)では、クラス・サークル合わせて24団体もが演劇に取り組むが、客の入りや評判はあまり良くなく、内容が薄いとの批判が多く寄せられ、翌第6回駒場祭(昭和30年)では12団体に半減してしまう。その後も学生運動の盛り上がりとそれに伴う展示企画の増加とともに、演劇は衰退の一途をたどり、一時5団体にまで減ってしまうが、東大闘争も終わって1970年代に入ると再び増えだし、10~20団体が演劇を行うようになる。

ページェント

 これも今ではあまり使われない言葉だが、当時のプログラムや東京大学新聞では「野外劇」と解説されている。(辞書を引くと、歴史的事件を扱った野外劇、となっている。)これは第3回駒場祭(昭和27年)に始まったもので、本館(現1号館)の正面に特設舞台を設置し、様々なパフォーマンスを繰り広げた。何回か中止をはさみながらも第15回駒場祭(昭和39年)まで続いた。第20回駒場祭(昭和44年)からはグランドフェスティバルとして再開され、以後現在に至るまで毎回続いている。正門を入ってすぐという、最も目立つところに位置し、駒場祭委員会では文三劇場とともに目玉企画として扱っている。現在は、ここでは3日間ともバンドの演奏に使用され、その他のイベントは、11、12、13号館に挟まれた広場に作られる新館前ステージで行われている。話を戻すと、第3回駒場祭(昭和27年)では、「平和をかちとる意志」がテーマとなった。内容は、詩の朗読、踊り、仮装行列、パントマイム、劇となっていて、ラストはファイアストームを囲んでフォークダンスを行った。中心となる演劇は、有志サークルが合同で脚本作成に当たり、寮デコに好意的だった市原教授もこの共同作業に参加した。また、仮装行列では吉田首相の張りぼてや自由の女神、東条元首相も登場した。第4回駒場祭(昭和28年)では、次のような紹介文がプログラムに載せられた。「いま、人々の胸の中にすばらしい希望が湧きあがりつつあります。美しい明るい光が世界をおゝい始めています。平和。平和の希望です。」内容はやはり、当時の社会や政治を風刺したものが多かった。少し長くなるが、東京大学学生新聞の記述から内容を紹介しよう。「中国研究会は中国の踊りと合唱、廿八年文Ⅱ二組は、“僕らはごめんだ”と題するパントマイムで、平和な世界が戦争へと進んでいく過程に、アメリカや吉田政府の政策、頽廃的な現代社会の様相を織り込み、平和への団結がいかに重要であるか、そのために我々は何を為さねばならないかを説いている。28年文Ⅰ十一組は、“日本のアルバム”を総勢五十名近くの出演で、軍国主義時代から戦争-敗戦-戦後-文明の破壊?と進んでいく日本の社会の現場を端的に表す。27年文Ⅰ一組は三場からなる“故郷山演習地となる”で凶作に見舞われた農民を中心に“不安隊員募集”や土地の演習地化に対する農民の深刻な悩みと、それに対する村長や米軍、外務省の態度を浅間山演習地化問題に取材して、痛烈に諷刺している。音感合唱会は“サルカニ合戦”という題で、現代社会をお人好しのカニと狡猾なサルとにたとえて、そこにユーモアや諷刺を加えたものを用意している。」第5回駒場祭(昭和29年)ではページェント協議会を設け、内容がだぶるものは極力なくし、全体の統一をはかることとした。第6回駒場祭(昭和30年)では、申し込み締め切り時点での参加団体数が3団体と激減してしまう。これは、第5回駒場祭(昭和29年)でスローガンやビラ配布の問題に関して学部との対立が続いたため、第6回駒場祭委員会があつれきを避けるため慎重な姿勢に終始し、宣伝が不十分になったためだという。そのため翌年は行う意味がないとして中止に追い込まれてしまうが、ファイアストームとフォークダンスだけは好評だったため続けられた。第8回駒場祭(昭和32年)からは、消防署からの苦情のため、これらは現在の陸上競技場で行われるようになった。この回、ページェントは一応行われたようだが、特に目立った企画はなかったようで、翌年は再び中止となる。第10回駒場祭(昭和34年)からまた復活したが、仮装行列は別に行われるようになった。第11回駒場祭(昭和35年)からは場所を北寮前に移し、断続的に第15回(昭和39年)まで続いた。第14回駒場祭(昭和38年)のページェントのプログラムは次のようなものだった。

  • 1日目:阿波踊り(旅行研)、子供達の劇(どんぐり子供会)、ロシア民謡(青山学院)、ヤンコ踊り(中国研)、全員合唱(音感)、中央合唱団
  • 2日目:奇術(奇術愛好会)、ヤンコ踊り(中国研)、朝鮮の踊り(朝文研)、カッパ踊り(水泳部)、日本民謡(法政大民舞研)

ファイアストーム

 一高の紀念祭では、最終日の日の暮れた後、寮デコの飾りや余った材木などを集めて、焚き火をし、皆でその周りを囲んで寮歌を歌って締めくくるのが習わしだった。寮歌は学生自らが作詞・作曲し、歌詞の内容も学生歌らしく清純で格調高く、内容は寄宿寮の生活を歌ったものが多かった。優秀な寮歌は毎年の寮祭で歌われ、中には100曲以上もの寮歌をそらんじる人もいたという。第12回紀念祭寮歌(明治35年)の「嗚呼玉杯に花うけて」や、第11回紀念祭寮歌(明治34年)の「春爛漫の花の色」は特に有名で後々まで広く歌われた。駒場の構内にある一高同窓会館の庭には、今も歌詞を刻んだ「嗚呼玉杯の碑」が建てられている。寮歌は、駒場祭の時代になっても、寮委員会が募集し、少なくとも第9回駒場祭(昭和33年)までは作られていたのだが、その後は、断続的に募集されるのみとなっている。参考までに、駒場祭にあわせて作られた寮歌をあげておく。なお、第4回駒場祭では、駒場祭記念歌「朝霧の」が作られた。

  • 第3回(昭和27年) 野分の丘に訪れて
  • 第4回(昭和28年) 苦しみと怒りの中で
  • 第5回(昭和29年) 世界につづく秋空に
  • 第6回(昭和30年) あの窓からこの窓から、朝明けの駒場の丘に、うららかに陽炎もえて(3曲)
  • 第7回(昭和31年) 若人の清純の氣に、あえかなる旅愁いだきつ(2曲)
  • 第8回(昭和32年) 武蔵野渡る涼風に
  • 第9回(昭和33年) 神秘なる眞如の遠の末

 駒場祭の時代になってからのファイアストームも、向陵会(一高時代からの寮生の同窓会)とボート部などの寮内サークルが中心となって進められたが、寮歌ばかりで一般の学生が参加しにくいとの批判が出て、第10回駒場祭(昭和34年)では、駒場祭委員会がファイアストーム委員会を作って運営にのりだし、寮歌以外の歌も歌うようになった。第12回駒場祭(昭和36年)のファイアストームのプログラムは次のようなものだった。

  • 17:00 ファンファーレ、聖火到着、大合唱(ただ一つ、学生歌、運動会歌)
  • 17:10 仮装デモンストレーション表彰式、表彰団体デモ
  • 17:25 大合唱(若者よ、雪山讃歌、谷間の火)
  • 17:35 ボート音頭(ボート部)、大外踊り(柔道部)
  • 17:45 大合唱(よさこい節、赤とんぼ、北帰行、トロイカ、カチューシャ)
  • 18:00 阿波踊り(旅行研究会)
  • 18:10 大合唱(嗚呼玉杯他寮歌)
  • 18:30 蛍の光斉唱、閉会

 当時の学部側の資料を見ると、やはり火事が起きないよう担当責任者に消火器等の準備をさせたり消防署との連絡をさせたりと、対策に腐心していることがうかがえる。ファイアストームは、一体感の中で駒場祭を無事終えたことを喜ぶと同時に、寮デコを燃やしてしまうという行為に象徴されるように、明日からはまた何事もなかったかのように授業などの日常生活が始まるという気持ちの切り替えを表す意味もあった。フォークダンスは第27回(昭和51年)で最後となり、ファイアストームは、第30回(昭和54年)を最後にプログラムから姿を消している。サークルの枠を越えて歌や踊りを楽しむということを学生が馬鹿馬鹿しく感じるようになってきたのだろう。寮歌や学生歌を知っているという学生も殆どいない。今の駒場祭にはフィナーレを飾るイベントといったものは特になく、後片付けの慌ただしさの中で終わってしまう。そのことを寂しく思う声も時々聞かれるが、ファイアストームや寮歌がすでに過去の風景となりつつあり、復活することはないだろう。

仮装行列

 仮装行列は、前述したように第3回駒場祭(昭和27年)で行われたページェントに発端があるとみてよいだろう。第1回、第2回(昭和25、26年)の駒場祭でも仮装コンクールという企画はあったようだが、どのようなものだったかについては何も記録が残っていない。駒場祭での仮装行列は、かぶりもので変装する類のものは殆どなく、みこしや山車をかついで練り歩くものが多い。仮装行列もまた、始まった当初は、政治家や政策の諷刺のネタが多く登場するが、次第に運動系の部が奇抜なデザインのみこしを作るようになる。第10回駒場祭(昭和34年)では、政治色を薄め「青春祭」としての性格を強く押し出すためとして「仮装大デモンストレーション」が企画され、仮装行列を構外まで繰り出すこととなる。これはその後第13回(昭和37年)まで続く。第六委員会は最初、東大の品位を汚す恐れがあるとして許可しようとしなかったが、教授の中にも賛成する声があり、黙認する形となった。黙認といっても、警察署への届出や、警備のための要員要請(参加団体からも警備のための要員を出させていたが)などがあり、警察署からも一度でも事故を起こせば翌年からは中止とするようにと言われていたらしく、準備は大変だった。第10回の仮装の演目には、「現代日本ヒモツキ全集」「岸ムカデ」「国土防衛隊」「ヒロイン現代版」「一九六〇年の十大ニュース」「気に入らぬものは」「大名行列」「阿波踊り」などがあった。行列は、渋谷駅の高架下をくぐり、渋谷を一周して駒場に戻ってくるコース(後には縮小されるが)で、河童踊りを渋谷のハチ公前で披露したりなどもしたようだ。最初は半分以上がクラスの参加だったが、次第にクラス参加は減っていく。第14回駒場祭(昭和38年)では、11団体中クラスは3団体で、残りは、恒例の阿波踊りを踊る旅行研究会を除いて運動系の部だった。また、審査委員会が作られて、優秀な仮装はファイアストームで表彰された。教官にも好評を博した仮装行列だったが、第14回駒場祭で手続きをめぐる駒場祭委員の不手際から、学外の行進が許可されず、翌年からは学内のみの行進となってしまい、第18回駒場祭(昭和42年)を最後になくなってしまう。その後、第28回駒場祭(昭和52年)で復活し、再び渋谷まで行進するようになり、第35回駒場祭(昭和59年)まで続けられる。復活後は、みこしとともに、応援部のブラスバンドやチアガールの行列(応援部の発表会である淡青祭も駒場祭で行われていた)も人気だった。中止されていた間も一部の運動部は、学内での行列を続けていた。現在行われていないのは、仮装行列という企画形態が合わなくなってきた(始まった当初でさえ、時代遅れではないかという批判があった)ことと、現在の駒場祭では異なったサークル同士が合同で企画に参加しようという意識が希薄になっていることがあげられるだろう。みこし自体も、少林寺拳法部の巨大なだるまと、合気道部のユニークなキャラクターみこしが続いているのみだ。

河童踊り

 河童踊りは、一高の紀念祭の時代からある仮装行列で、腰蓑を巻き、上半身は裸でペイントをほどこし、くちばしや皿をつけて河童の格好をした水泳部員が構内を踊り歩き(渋谷まで行ったこともあるが)、最後は生協食堂横のプール(現在はプールとしては使用されておらず、防火水槽となっている)に飛び込むというものだ。昭和2年からあるようで、戦前は輪になって日本舞踊のような踊りだったようだが、踊りの形式はきちんと確立され、「河童踊りの歌」も作られた。駒場祭でも第1回(昭和24年)の時から、駒場祭委員会が水泳部に強く実行を勧め、その後一回も欠かすことなく続けられたが、ついに第49回を最後に後継者不足で伝統が途絶えてしまった。踊りの形式はいい加減になり、酒を飲みながら歩く形となっていたが、11月下旬の冷え込む気候の中で水に飛び込むのはかなりつらかったのが原因のようだ。

※上記文章は、第51回駒場祭(2001年11月24日〜26日)当時に執筆したものです。