開催日時
1959年(昭和34年)11月22日、23日
テーマ
- 第十回駒場祭を平和と民主主義のために
- 安保条約改定の本質究明
- 戦争と破壊を目的とした科学の研究には協力しないことを固く誓おう
概要
安保闘争が高揚する中で開かれ、安保を主題にする企画が多かった。政党討論会「安保改定は是か非か」には浅沼稲次郎氏が出席した。仮装行列が初めて行われた。「ムード喫茶」なる企画も出るなど、「祭り」の気分は高まる一方となるが、大江健三郎氏、石原慎太郎氏、江藤淳氏の三氏講演などもあった。
Komaba Festival Information Website
1959年(昭和34年)11月22日、23日
安保闘争が高揚する中で開かれ、安保を主題にする企画が多かった。政党討論会「安保改定は是か非か」には浅沼稲次郎氏が出席した。仮装行列が初めて行われた。「ムード喫茶」なる企画も出るなど、「祭り」の気分は高まる一方となるが、大江健三郎氏、石原慎太郎氏、江藤淳氏の三氏講演などもあった。
1958年(昭和33年)11月22日、23日
勤評闘争を反映し、スローガンの中に「民主教育を権力の支配から守り学園の自治を確立しよう」が掲げられ、教育問題を取り上げた講演会、シンポジウムが目立った。松川事件を取り上げた広津和郎氏の講演会もあった。予算は125万円になったがこの年はプログラムの広告でゴタゴタしていた。来場者には小、中学生と女子学生が目立った。有吉佐和子氏の講演がお目当てで、終わった途端蜘蛛の子を散らすように帰ってしまったという。50円のカレーと70円の蒲焼きが好評であった。
1957年(昭和32年)11月16日、17日
折衝の結果スローガンのプログラムへの刷り込みが認められた。また、向陵会が野良犬の肉を焼いて一串10円で売ったという「焼肉事件」が起こる。セツルメントの部屋で可愛がっていた犬がいなくなったので、食べられてしまったのではないかと心配した女子学生が向陵会に抗議に行ったという話もある。スプートニクの成功に刺激されて人工衛星に関する講演会が多かった。
1956年(昭和31年)11月17日、18日
一、平和と民主主義と独立のための創造的文化を
二、学問の自由と学園の自治を守ろう
三、市民と学生の交流を
スローガン問題が持ち上がり、禁止の総長訓示が出たりした(モットーならばよいことで妥結)。砂川闘争を反映して構成詩「砂川」の上演などがあった反面、第3回の時にはその像が火あぶりになりそうだった吉田茂前首相が講演し、満員御礼の盛況となり、チグハグであると言われた。
1955年(昭和30年)11月18日~20日
不明
保守合同の年。この年あたりから風刺の精神が薄くなってくる。「僕は君を愛している」「ああ、あなた、死んじゃイヤ」などという科白の芝居が多かった。日ソ交渉の全権大使松本俊一氏の講演が好評を博した。駒場祭財政も年ごとに好転してきていたが、第六回駒場祭では委員長の手腕もあり、45万円の黒字を出している。
1954年(昭和29年)11月26日~28日
不明
九大教室(現在の九百番教室)の改修工事が遅れ、日程が延期されるなど、一時は開催すら危うくなった。これは前年に引き続き演劇の企画が多くなった上に、キャンパスの不整備から舞台にのせる芝居の数が少なく問題化したため。しかし、ふたをあけてみるとどの芝居も不入りだったようだ。ちなみに当時プログラムの値段は1部40円だった。
1953年(昭和28年)11月21日~23日
平和と友情のために
カンニングでの退学者が六人にも及び、学生のモラル低下が叫ばれた。映画研究会は、記録映画「東大教養学部」を上映した。航空部は、朝日新聞社の協力で、同社の飛行機から祝賀ビラ数千枚を撒いてもらうなど華やかな駒場祭となった。また、この年初めてフォークダンスが行われた。
不明
不明
サンフランシスコ講和条約が締結された年。野外ページェント、駒場寮デコレーションが登場(復活)した。寮デコの内容が占領軍への誹謗にあたるとGHQに指摘されて以来、大学側は当初どうしても許可しようとしなかったが、委員長が大学との強引な交渉の末承認させた。ちなみに、この年の予算は、50万円ほど。
不明
不明
第2回駒場祭の様子を伝えてくれる資料は、ほとんど存在しない。ただ、この年は、運動会や、運動部の活動紹介など、学内サークルの発表会という要素が強くなったようである。仮装コンクールも始まった。委員長の手記には、本来の目的であるはずの研究成果の発表が貧弱で、このままでは駒場祭不要論も出かねないと書かれている。こうしたことは昔から言われていたようだ。
1950年(昭和25年)11月25日、26日
不明
記念すべき第1回。設立されたばかりの学友会を中心に駒場祭委員会が結成されたが、矢内原学部長の「自主的活動だから援助しない」との方針のもとで財政的な困難に直面した。しかも初めての試みで、プログラムがどれだけ売れるのか、客がどの程度集まるのか等全く予測できなかった。駒場寮の敷布をちぎって作った「駒場祭委員長」の腕章をつけ、小倉寛太郎委員長が観客の人数を一人一人数えたという涙ぐましいエピソードもある。また当時はレッドパージの嵐が吹き荒れ、学内に私服警官やMPがもぐりこんでいた時代で、大学側が展示物の点検を行うことになっていた。政治的な展示は、点検がすんでから飾り付け、駒場祭が終わるとあわてて証拠品を隠滅したという裏話も残っている。駒場祭の全日程が終わった時、委員たちは「なにごともなかったなあ」と囁きあい、そしてその声が「インターナショナル」を歌う声に変わっていったという。第1回委員のレジスタンスだった。(第1回駒場祭が開かれるまでの経緯については、別に詳しく説明があります。)