駒場祭史(コラム)

運営委員

学園祭を実施するには、たくさんのマンパワーが必要になります。例えば他大学から机や椅子を借りてきたり、当日出る大量のゴミを分別管理したり、キャンパスの門を管理して車両の入構を規制したり。駒場祭は大きな学園祭ですから、こういった作業に必要な人でも累計すれば膨大なもので、駒場祭を運営する駒場祭委員会の学生だけではとても足りません。そこでこのような作業を駒場祭に参加する各企画の学生に効率よく割り振っているのが運営委員という制度です。現在の駒場祭では単位制度を導入してできる限り公平な分担を目指しており、例えば参加する各企画は一律3単位、椅子を1脚借りるごとに各1単位というように定め、1単位当たりおよそ1人で2時間、作業に参加してもらっています。年によって変動はありますが、駒場祭の前後を通じての運営委員の業務は約2500単位にものぼっています。運営委員という制度を通じて、駒場祭に参加する各学生が全体の運営にも参加し、各企画の一員であると同時に駒場祭の一員なのだという自覚を持つのではないかと思います。

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駒場祭史(第40回〜第51回)

学園祭の環境対策

環境対策前史

第40回~第51回の時期というのは、日本のバブルがはじけ、様々なものが「自分らしさを探す」時期であったわけだが、駒場祭もその例外ではなく、不況の影響を受けた広告収入減・来場者減少と合わせ、様々な方向への発展を模索していた。そんな模索の一つが本部企画からはじまる「プロジェクト制」である。
「プロジェクト制」というのは、学園祭全体の運営に関わる委員とは違い、運営の一部に参加するプロジェクトメンバーを募って、様々な試みを行おうというものである。駒場祭は例年少人数で運営されており、他の学園祭にあるように大規模な企画を立てることができず、一般参加者の持ち込む企画を援助する方向でしか学園祭を盛り上げられなかったため、委員会運営への参加の門戸を広くすると言う意味で、第48回ごろから実行され始めていた。

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駒場祭史(第30回〜第39回)

大学紛争が終わり学生の気質が変化していくなか、駒場祭の企画にも変化が訪れることとなる。この時代には現在の駒場祭につながる多くの企画が登場している。
本稿では、現在の駒場祭の目玉企画を意識し、特に、文三劇場、ミスコンテスト(以下、ミスコン)に関して述べていくこととする。加えて、当時に特徴的な企画として、恋人リサーチにも若干ふれる。

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駒場祭史(第11回~第29回)

60年安保の余韻の中で

 昭和35(1960)年に行われた第11回の駒場祭は、サブタイトルが「樺美智子さんにささぐ」とされたことからもわかるように、仮装行列や阿波踊りの盛り上がりでまさしく「青春祭」の様相を呈した前年第10回とはうってかわり、前年から繰り広げられていた60年安保闘争の影響が色濃い、政治的色彩の強調された学園祭となった。第11回の駒場祭委員会の委員長は、のちの東大闘争でも活躍した最首悟氏で、氏の言葉を借りればこの年の駒場祭は「民主勢力の内部に存する問題の解明、特に既存左翼に対する徹底的な批判を行い、あらたな反国民勢力の攻撃に対する我々の決意を表明しようとするもの」であるという。駒場祭は「青春祭」であるべきか、それとも「反体制」運動であるべきか、という議論は翌年の第12回駒場祭の開催に当たっても議論されたが、第12回の統一テーマが「反体制の新しいいぶきを」とされたように、60年代の駒場祭は政治色を強める形で幕開けした。

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駒場祭史(第1回~第10回)

寮デコレーションの復活

 紀念祭の目玉であった寮デコレーション(寮デコ)は、先に述べたように第1回(昭和25年)の駒場祭では、学部側が難色を示したため実現しなかった。第2回(昭和26年)の駒場祭にあたっても、学部側は駒場祭は研究成果の発表をその中心とするべきであり、一高のノスタルジーは時代遅れだとまで言い切っており、断念せざるを得なかった。ところが、翌第3回(昭和27年)の駒場祭では学部側が一転して寮デコレーションを認め、むしろ推奨するような発言も見られる。学生側の記録では、いわゆるポツダム政令の廃止もあったことから復活を主張し、遠藤郁夫駒場祭委員長が強引な交渉の末認めさせたことになっているが、教養学部報を読むと、第六委員長を務めた市原豊太教授の理解によるところが大きいことがわかる。市原教授は、これまでの2回の駒場祭は必ずしも一般学生の関心が高くないことに気をもみ、面白いもの、楽しいものも必要だということに理解を示して寮デコの復活に意欲を見せ、「どうせやるなら全寮的にやってはどうか」と提案した。また、教官の審査で優秀作を決めて表彰することとなり、約60室が参加した。昭和27年(1952年)10月28日に取り交わされた「駒場祭に関する申合事項」には、「駒場祭は、教養学部学生の研究、文化活動の成果を発表することを以て主眼とし、一般市民との交歓をはかる」とあり、諒解事項として「寮内デコレーション・仮装行列等を禁止する理由とはしない」と付記されている。その後ピーク時には全室の2/3以上にあたる120室もの参加があるまで盛んとなるが、審査を行った教官のコメントは芳しくないことが多く、「類型的」「ウィットに欠ける」「露骨に政治的」との批判が相次ぎ、飾り付けで諷刺精神を示す時代ではないとまで言われる。優秀作とされた作品をいくつか紹介しよう。

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