第42回駒場祭(1991年:平成3年)

第42回駒場祭

開催日時

1991年(平成3年)11月22日~24日

テーマ

何か少し、変わるかもしれない

概要

この年から、大量に出るゴミをきちんと分別することが学部側から求められるようになり、現在も行っている環境対策が意識され始めるようになった。平日にあたる1日目の客寄せのため、クラス・サークル対抗の歌合戦や、三輪車レースなどが本部企画で行われたが、大した効果はなかったようだ。また、PKO活動の問題がマスコミを賑わし、これをテーマとした企画もあった。講演会には、呉智英氏、黒川紀章氏らが訪れた。また、オウム真理教の関連団体のメンバーらが、運動場に巨大なアドバルーンをあげたり、信者が銀杏並木を行進するなどの行動をとった。

第41回駒場祭(1990年:平成2年)

第41回駒場祭

開催日時

1990年(平成2年)11月23日~25日

テーマ

駒場に来た 東大生を見た

概要

バブル経済に乗って750万円の広告収入を集め、大いに委員会財政は潤った。今上天皇の大嘗祭と日程がかち合い、過激派の動向が心配されたが、当日は特に影響は出なかった。しかし、夜間ボヤが頻発、消防署が現場検証を行うなど、むしろ夜に問題が起こった。内容的には天皇制を問う企画が目立った。「私の東大改造計画」として、予備校講師、元自治会委員長などが激論をかわす企画が好評であったが、全般的に目新しい企画は少なかった。

第40回駒場祭(1989年:平成元年)

第40回駒場祭

開催日時

1989年(平成元年)11月24日~26日

テーマ

最・前・線

概要

この年も前日に続いて日程問題が起こり、前日の準備を1日まるごとにしたい学生側とリスクを背負いたくない当局との駆け引きの中、第6委員長は、前日の準備に関しては学生課に一任という方針を打ち出し、学生課の協力で準備は前日の午後からということになった。恋人リサーチの問題が表面化、女性団体から、女性のランク付けにつながるなどとの批判が出た。目玉企画には、「政治改革へのvision」と題して江田五月氏他議員によるシンポジウム、駒場構内の各所のチェックポイントを巡る駒場オリエンテーリング、大岡信氏の講演会などがあった。「風の旅団」事件での逮捕者が不当であったという声が高まっていた中、自治会は、警察の問題をテーマとする講演会を行った。

第39回駒場祭(1988年:昭和63年)

第39回駒場祭

開催日時

1988年(昭和63年)11月25日~27日

テーマ

現場はここにある。

概要

金・土・日の三日間を全日使いたい(準備期間は木曜日の午後)という駒場祭委員会と、金曜日は午後から(準備期間は金曜日の午前)という第六委員会との間で折り合いがつかず、結局木曜日の五限終了後から準備を始めるということで妥結した(合意書が締結されたのは21日)。実際には、学生課の協力もあって、木曜日中には屋内企画の殆どが準備を終えていた。昭和天皇が病気になったため、首都圏の大学のうち1/3以上が学園祭の規模縮小など自粛を決める中、例年通りの規模で行われた。正門の門柱がギリシャ神殿風に飾り付けられ、1号館にアドバルーンがあがったり、ライトアップをしたりと装飾面で目を引くものとなった。また、反天皇制の活動家達に支持されていた「風の旅団」が公演を行い、当日はそこそこの人気を博したが、企画場所や企画時間などが直前まで決まらず、当日も巨大な焚き火を行うなどの問題を起こした。駒場祭とは関係ないが、翌年の9月、「風の旅団」は不許可となったにも関わらず駒場構内で公演を強行、構内に機動隊が導入され、逮捕者が出る事件を引き起こし、今のところ最後の(東大内への)機動隊導入の事件となる。グランドフェスティバルで、1日使って歌合戦が行われた。これは、事前に予選会を行うなどかなり本格的なもので、多くの申し込みがあった。また、AV女優の黒木香が教育をテーマとする対談に登場したが、やはり多くのクレームを受けた。この他、C.W.ニコル氏、前年の五月祭のポスターに天使姿で登場した宇澤弘文氏の講演会などがあった。

第38回駒場祭(1987年:昭和62年)

第38回駒場祭

開催日時

1987年(昭和62年)11月21日~23日

テーマ

きみと、はなしがしたいんだ

概要

旧2号館が取り壊され、小教室が増加したことにより、以後演劇企画がやや減少することとなる。また、この頃から主に女性をターゲットとした占い企画が増加する。「東大生GALコンテスト」に対し、反対派の学生らがコンテストは女性差別であり、男性本位の競争をあおるものだとして、駒場祭前から連日ビラを撒くなどの反対運動を繰り返し、当日は、爆竹をもって会場に乱入、照明を落とし、壇上にあがり、乱闘状態となったため、急遽中止となった。新館前広場にウルトラマンやゼットンなどが登場する本部企画があった。留学生の協力でステージ上で各国の民族音楽を演奏する本部企画もあったが、いずれもそれほどの人出ではなかったようだ。

第37回駒場祭(1986年:昭和61年)

第37回駒場祭

開催日時

1986年(昭和61年)11月22日~24日

テーマ

朝に道を聞いても 夕べに死んではもったいない

概要

前年の六項目確認書批判を受けて、この年から新たに企画団体自らによる自主規律が制定されることとなり、駒場祭運営の基本精神が盛り込まれることとなった。この年は委員会の立ち上がりが遅く、「円高不況」と重なって広告収入が前年度より激減し苦しい運営を迫られることとなった。広告収入減少問題は週刊誌にも大きく紹介された。また、例年目玉企画を行ってきたアイドルプロデュース研が入場料徴収禁止に疑問として、この年は不参加を表明した。この頃から模擬店が、タコ焼き、焼きそばからバラエティー化してきた。変わった企画としては、本部企画として、4メートルほどの木製の舟を路上に置き、通りがかる人に落書きをしてもらったり、釘を打ってもらったりなどして3日間で舟を完成させようというものがあった。また、第一体育館では、内側全面を布で覆い、遊牧民族の移動住居「パオ」に見立てて、中に舞台や客席を設営し、舞踏家、ロックバンド、映画の上映などを行うという大がかりな企画が行われたが、スポンサー提携の形式が問題となった。以後の駒場祭では、スポンサーの問題は顕著になっていく。他に詩人の谷川俊太郎氏らが言葉に関する対談を行った。この年から淡青祭は独立して行われるようになった。

第36回駒場祭(1985年:昭和60年)

第36回駒場祭

開催日時

1985年(昭和60年)11月22日~24日

テーマ

どうして? どうして? どうして?

概要

学部側と結んでいた六項目確認書に一方的であるとの批判が相次ぐ。また、本部企画として、セクシーさが売りとしていたアイドルグループ「オナッターズ」のコンサートを巡って、学生の有志団体らが女性差別や性の商品化につながるとして反対、問題となった。。当日は、会場でミニFM局が開局された。他に本部企画では対談が多数企画され、天野祐吉氏、栗本慎一郎氏などが訪れた。あいにくの天候で、強風により倒れた看板が続出した。

第35回駒場祭(1984年:昭和59年)

第35回駒場祭

開催日時

1984年(昭和59年)11月23日~25日

テーマ

パラレルワールド 橋架けて

概要

ロリコン風表紙のポスター、プログラムが評判となったが、講演を予定していた糸井重里氏、広松渉氏が病気のため講演会が中止となるなどメインを欠いたやや寂しいものとなった。現在の目玉企画の一つ歌謡研究会が企画を出したのはこの回から。本部企画として駒場祭レクチャーシリーズと称し、「愛」をテーマとして連続講演会が行われたが、その後が続かなかった。グランドフェスティバルが1号館前に復活(その前2年間は学生会館前、その前はテニスコート脇だった)し、大成功をおさめた。東京芸術大学に在学中のバイオリニスト漆原啓子さんのコンサートが開かれた。また、構外にまで繰り出す仮装行列はこの年が最後となった。

第34回駒場祭(1983年:昭和58年)

第34回駒場祭

開催日時

1983年(昭和58年)11月18日~20日

テーマ

ヒト ヒト コマバサイ ヒト

概要

淡青祭が人気。初の試みとしてクラス・サークル対抗歌合戦が行われ、大盛況となった。間夜祭が初めて行われ、ディスコ・ダンスが繰り広げられた。また、委員会内の事務処理に初めてパソコンが導入された。

第33回駒場祭(1982年:昭和57年)

第33回駒場祭

開催日時

1982年(昭和57年)11月21日~23日

テーマ

平和・真実・自由 
―きみのために ぼくのために―

概要

テーマが押しつけがましいとされ、批判が多かった。パソコンを使用した占いの企画が人気を呼んだ。アイドルプロデュース研が開催した「東大生が選ぶアイドル」の会場に反対派の学生が乱入、司会者が引きずりおろされるなどの騒ぎとなり、審査が中止された。本部企画として、シンポジウム「世界資本主義の危機と日本の進路」が開かれたが、全般的に硬派企画は振るわなかったようだ。民青主導で運営されていた委員会だったが、この頃を境に、民青は少数派となり、メンバーのほとんどがノンセクトの一般学生となる。また、屋外ブロック名がユニークなものとなったのもこの時から。