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第1回駒場祭〜第5回駒場祭
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第1回駒場祭
1950年(昭和25年)11月25、26日
(テーマ不明)

 記念すべき第1回。設立されたばかりの学友会を中心に駒場祭委員会が結成されたが、矢内原学部長の「自主的活動だから援助しない」との方針のもとで財政的な困難に直面した。しかも初めての試みで、プログラムがどれだけ売れるのか、客がどの程度集まるのか等全く予測できなかった。駒場寮の敷布をちぎって作った「駒場祭委員長」の腕章をつけ、小倉寛太郎委員長が観客の人数を一人一人数えたという涙ぐましいエピソードもある。また当時はレッドパージの嵐が吹き荒れ、学内に私服警官やMPがもぐりこんでいた時代で、大学側が展示物の点検を行うことになっていた。政治的な展示は、点検がすんでから飾り付け、駒場祭が終わるとあわてて証拠品を隠滅したという裏話も残っている。駒場祭の全日程が終わった時、委員たちは「なにごともなかったなあ」と囁きあい、そしてその声が「インターナショナル」を歌う声に変わっていったという。第1回委員のレジスタンスだった。(第1回駒場祭が開かれるまでの経緯については、別に詳しく説明があります。)

第2回駒場祭
1951年(昭和26年)
(テーマ不明)

 第2回駒場祭の様子を伝えてくれる資料は、ほとんど存在しない。ただ、この年は、運動会や、運動部の活動紹介など、学内サークルの発表会という要素が強くなったようである。仮装コンクールも始まった。委員長の手記には、本来の目的であるはずの研究成果の発表が貧弱で、このままでは駒場祭不要論も出かねないと書かれている。こうしたことは昔から言われていたようだ。

Missing!
Missing!
第3回駒場祭
1952年(昭和27年)
(テーマ不明)

 サンフランシスコ講和条約が締結された年。野外ページェント、駒場寮デコレーションが登場(復活)した。寮デコの内容が占領軍への誹謗にあたるとGHQに指摘されて以来、大学側は当初どうしても許可しようとしなかったが、委員長が大学との強引な交渉の末承認させた。ちなみに、この年の予算は、50万円ほど。

第4回駒場祭
1953年(昭和28年)11月21〜23日
平和と友情のために

 カンニングでの退学者が六人にも及び、学生のモラル低下が叫ばれた。映画研究会は、記録映画「東大教養学部」を上映した。航空部は、朝日新聞社の協力で、同社の飛行機から祝賀ビラ数千枚を撒いてもらうなど華やかな駒場祭となった。また、この年初めてフォークダンスが行われた。

Missing!
Missing!
第5回駒場祭
1954年(昭和29年)11月26〜28日
(テーマ不明)

 九大教室(現在の九百番教室)の改修工事が遅れ、日程が延期されるなど、一時は開催すら危うくなった。これは前年に引き続き演劇の企画が多くなった上に、キャンパスの不整備から舞台にのせる芝居の数が少なく問題化したため。しかし、ふたをあけてみるとどの芝居も不入りだったようだ。ちなみに当時プログラムの値段は1部40円だった。


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