この文章は第1回駒場祭開催までの大まかな流れをまとめたものです。内容は多分に専門的(関係者向け)ですが、かなり良くまとまっており、駒場祭の黎明期を記した数少ない文章になることでしょう。文責は井上 東氏です。(外山)
第1回駒場祭が開催されたのは、1950年(昭和25年)の11月25~26日のことである。ここでは、駒場祭が開催されるに至った経緯を記してみたい。
“駒場祭が生まれるまで” の続きを読むKomaba Festival Information Website
この文章は第1回駒場祭開催までの大まかな流れをまとめたものです。内容は多分に専門的(関係者向け)ですが、かなり良くまとまっており、駒場祭の黎明期を記した数少ない文章になることでしょう。文責は井上 東氏です。(外山)
第1回駒場祭が開催されたのは、1950年(昭和25年)の11月25~26日のことである。ここでは、駒場祭が開催されるに至った経緯を記してみたい。
“駒場祭が生まれるまで” の続きを読む1999年(平成11年)11月21日~23日
BREAK
節目の50回にあたるということもあり、著名人を呼ぶ企画が多数開かれた。特に橋本龍太郎前首相、海部俊樹元首相をはじめとする政治家が多数訪れる予定。ここ数年来起こっている夜間のトラブルのため、一度は夜間居残りの禁止を決定したが、学友会や企画団体が猛反発し、度重なるアンケートや説明会開催などの結果、警備を厳重に行うものの結局伝統的な夜間居残りの形は残ることとなった。また、長年続く不況の影響で広告収入は、約150万円にまで落ち込み、財政的には苦しい状態が続くこととなった。また、キャンパスプラザ前の広場にステージを設ける(パレット)こととなり、本格的に企画の使用を開始した。環境対策についても、前年度に引き続いての対策の他、ゴミの出にくいメニューを提供するゾーンを設けている。また、紀年祭時代から続いてきた水泳部の伝統企画「河童踊り」が後継者不足のため、ついに企画としての実行を断念することになった。現在プログラムの値段は200円。予算の概要は、新入生からの徴収金約860万円と企業広告及び東大卒業生からの賛助金で収入のほとんどをまかなっており、およそ1200万円の規模となっている。
1998年(平成10年)11月21日~23日
静と動の交響曲
取り壊された明寮の跡地に新たな課外活動施設であるキャンパスプラザが建設されたのを受け、生協との間の敷地を利用して「エコゾーン」とし、ソーラーカーの展示、廃油処理の実演などが行われた。文三劇場も駒場小劇場に代わって建設された多目的ホールで行われることとなる。委員会の委員人数が増え、環境対策に力を入れるようになり、使い捨て容器の脱却を目指した洗い皿の制度を一部ブロックで開始し、使い捨て容器の回収率も約60%に達した。本部企画の一つとして、チェックポイントに置かれた問題を解きながらクロスワードを完成させるというマジック・ワード・ラリーが行われたが、難しかったためか完走者は少なかった。正門のアーチが復活。テーマとも関連する音符のデザインが、シンプルながら好評であった。講演会では、鳩山由起夫氏、武村正義氏、小和田恆氏らが訪れた。夜間には、泥酔者による暴力事件が起こり、前年の事件もあることから夜間居残り中止論が高まることとなった。
1997年(平成9年)11月22日~24日
前途多難な羅針盤
この年から環境対策に本格的に取り組むようになり、大量に人出を動員してゴミ分別を行うようになった。模擬店にはリサイクル可能な容器の使用を推奨するなどしたが、初年度ということもあり、ほとんどが一般ゴミとして捨てられていた。講演会には加藤紘一氏、佐伯啓思氏、上田耕一郎氏、橋本大二郎氏らが訪れた。本格的なミスコンが初めて開かれ、マスコミにも大きく取り上げられ、現在も好評の企画である。しかし、外部団体の宣伝形態などで学部側と見解が食い違い、直前までもめ続けたが、最後は学部側の規制基準をほぼ飲む形になった。本部企画では、映画音楽の特集を組んだ吹奏楽のコンサートや、学内から作品を公募した写真展があり、写真展には400点近くもの応募があった。変わり種の企画としては、正門付近で、リングを組み立て、プロレスを開催した団体があった。当日は、近所の住民からグランドフェスティバルへの苦情が多く寄せられ、対応に追われた。また、この年初めてホームページを大々的に公開し、新しい媒体を利用した広報面の充実が図られた。夜間鉄製の扉がこじ開けられて閉鎖中の建物に侵入される事件が起き、事態を重くみた駒場祭委員会は、夜間居残りの一部中止に踏み切った。
1996年(平成8年)11月22日~24日
Stop to Start ~今、立ち止まる瞬間~
鳩山由起夫、邦夫兄弟が揃って駒場祭に訪れ、話題となった。他に星野英一氏、栗山尚一氏の講演会などがあった。本部企画には、在日韓国人2世の趙博氏のライブ、安楽死の問題に関するシンポジウム、「これからの日本の行く末-環境問題の視点から」と題する講演会などが選定された。企画が使用する椅子、机などの盗難が起こり、救急を呼ぶほどの泥酔者も相変わらず出るなどした。この年は企画の入場料徴収を届け出制としたが、入場料を取っていたある企画が雑誌で報道されたことで学部側は懸念を示し、翌年からは再び入場料徴収は禁止され、今に至っている。予想以上に不況のダメージは大きく、委員会財政が200万円を超える赤字となり、翌年から新入生1人あたりの運営費負担額が2000円から2500円に値上げされることとなる。
1995年(平成7年)11月24日~26日
究極の自己主張 究極の自己満足
講演会には、小泉純一郎氏、不破哲三氏、佐伯啓思氏が訪れ、本部企画として杉村太郎氏の講演会や薬害エイズ問題の企画があり、特に後者は900番教室が一杯に埋まるほどの人気だった。また、7号館の改修の影響で、文三劇場はこれ以後1号館で行われるようになる。学友会主催の、東大生を対象とした文学賞「銀杏並樹文学賞」が10年ぶりに復活し、授賞式が駒場祭で行われた。夜間には、非常用の火災報知機が4回もいたずらで鳴らされるなど飲酒による問題性がエスカレートしていくこととなる。
1994年(平成6年)11月18日~20日
いましかできないことが いまあるはず
学部側から休講日数をできるだけ短くするため、駒場祭の日程を11月3日近辺に移すよう要望があったが、準備時間が不足することを駒場祭委員会は主張。幾度かの交渉を経て、日程は例年通りだが、前日の準備日の休講は4限以降とすることとなった。講演会には、田中秀征氏、米本昌平氏らが訪れた他、江川達也氏と岡田斗司夫氏らのパネルディスカッションがあった。自転車部が仙台からのランニングのゴールを駒場の正門に設定し、ゴールした人にビールかけをして人目を引いていた。これ以外にも無届けでの行列や御輿が度々起こるなどのハプニングが多い年でもあった。
1993年(平成5年)11月21日~23日
(統一テーマなし)
91年に駒場寮の廃寮と新しい学生宿舎を建設する構想が発表されて以来、駒場寮自治会などの団体は廃寮反対運動を行ってきたが、その一環として、「駒場寮存続を考える」というスローガンのもと、加藤登紀子コンサートが駒場祭最終日に開かれることとなった。当日の参加者は4000人にも上ったが、主催団体が企業広告入りのパンフレットを配布するなどし、問題視した駒場祭委員会ともみ合いとなるなどの騒ぎとなった。従来は財源の多くを各企画からの割当金と広告収入に頼っていたが、バブル崩壊の影響で広告収入が約270万円になるなど激減したこともあり、財源の安定化のために、割当金を廃止する代わりに翌年の新入生全員から運営費を一括に徴収することになった。この年、夜間居残りをして酒を飲み過ぎ、救急車で運ばれた人が4人も出るなど、夜間の宴会行為が以後問題となってくる。教養学部のカリキュラム改革をテーマとした本部企画が開かれた。加藤周一氏、なだいなだ氏、猪瀬直樹氏の講演会がそれぞれ人気を博した他、体罰を取り上げた模擬裁判の企画が登場した。
1992年(平成4年)11月21日~23日
開殻
スタッフが女装するという喫茶店に「ゲイバー」という名称をつけた企画に対し、同性愛者の団体から同性愛に関し誤った認識を生むおそれがあるとして、企画名変更を求めるよう抗議があり、結局企画団体が折れて名称を変更することとなった。また、オウム真理教の教祖麻原彰晃氏の講演会に対し、宗教団体の発行する書籍を無料配布するなどの事前の確認書違反の行為があったとして、講演会中であるにもかかわらず、900番教室のブレーカーを落とし、強引に企画中止にさせるという事件が起こる(別の項で詳しく説明しています)。また、この頃から、オウムに限らず新興宗教系の企画が目立つようになってくる。講演会では、天野祐吉氏、小池百合子氏、西尾幹二氏らが好評だった。
1991年(平成3年)11月22日~24日
何か少し、変わるかもしれない
この年から、大量に出るゴミをきちんと分別することが学部側から求められるようになり、現在も行っている環境対策が意識され始めるようになった。平日にあたる1日目の客寄せのため、クラス・サークル対抗の歌合戦や、三輪車レースなどが本部企画で行われたが、大した効果はなかったようだ。また、PKO活動の問題がマスコミを賑わし、これをテーマとした企画もあった。講演会には、呉智英氏、黒川紀章氏らが訪れた。また、オウム真理教の関連団体のメンバーらが、運動場に巨大なアドバルーンをあげたり、信者が銀杏並木を行進するなどの行動をとった。